マタイ 26:26-35

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(26:28)

最後の晩餐は過越の食事でした。

この箇所に出てくる杯は、夕食の後に飲む三杯目の、贖いの杯だと考えられています。

この時、出エジプトの時に神が宣言された約束を告白します。

「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。」(出6:6)

この時、イエス様は

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

と言われました。

すなわち、神が伸ばされた御腕で贖うという約束は、今、イエス様が十字架で死なれたことによって、イエス様の血潮によって成し遂げられたということです。

最初の過越が、イスラエルが神の民であることを示す契約につながったように、今、キリストにある新しい神の民が形成されているということです。

マタイ 26:6-16

「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」(26:7)

問題は「非常に高価」だったということです。

彼女にとって、イエス様の存在がそれ以上に価値があったということです。

「イエス様、あなたはその価値があるお方です!」と、彼女は告白しているのです。

礼拝を英語ではワーシップ(Worship)と言います。

それは価値(worth-ship)を認めることです。

文字通り、彼女はイエス様を礼拝したのです。

残念ながら、イエス様の弟子たちはこれを見て、

「無駄なこと」

だと批判しました。

しかしイエス様は言われます。

「わたしに良いことをしてくれました。」

聖書は言います。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

ユダ 17-25

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(20,21節)

原文ではこの文章の命令形の動詞は「保ち」だけ(後は分詞)です。

神が命じているのは、神の愛のうちに自分自身を保つことです。

そのために、三つのことが挙げられています。

一、聖なる信仰によって教会を建て上げること。

教会を建て上げる働きに携わることを通して、保つことができます。

二、聖霊にあって祈る習慣を身につけること。

神の臨在の中で祈る習慣を身につけることによって、保つことができます。

三、主イエス・キリストを待ち望むこと。

主がいつ来られてもいいような生活を心がけることによって、保つことができます。

今日は主の日(棕櫚の主日)。共に、主に礼拝を捧げましょう。

すかなごっそ

ユースキャンプが横須賀の宿泊施設で行われたので、送迎のため私も久しぶりに三浦半島に行ってきました。

NHK大河ドラマで鎌倉時代を扱っていたこともあり、「三浦」に対する関心は爆上がり。

(衣笠で牧師をやっている三浦君ももしかしたら三浦の子孫なのでは、、、?)などと妄想を楽しみつつのドライブともなりました。

もう一つのお楽しみは「すかなごっそ」。

ここは三浦にある大型農産物直売所で特に旬の三浦で採れた野菜がリーズナブルに購入できます。

わたしはずっと「すかなごっそ」は「さかなごっそり」の略だと思っていたのですが調べてみたら「よこすかの大地に育まれた新鮮野ごちそうを味わってほしい」という思いから生まれた造語なのだそうです。

魚が全然売られてないからおかしいとは思ってたんですけどね、、、。

おいしい春キャベツや掘りたての筍などを手に入れて帰ってきました。

春本番を迎え、様々な場所で命の息吹を感じる今日この頃。

それぞれ新しい年度を迎え、期待と不安が入り混じっているかもしれませんが神様の恵みが変わらずあることをいつも感じることが出来ますように。

(小山晶子牧師夫人)

ユダ 1-16

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(3節)

信仰のために戦う必要があります。

聖書は言います。

「神を信じるすべての者に与えられた真理のことばを守るために、勇敢に戦ってほしいということです。」(LB)

いつの時代も、「唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定している」(4節)人たちがひそかに忍び込んできます。

イエス・キリストの十字架の御業を否定する人たちと戦う必要があります。

イエス・キリストの復活を否定する人たちと戦う必要があります。

「彼らはいつも不平を言うだけで、ただ欲望のままに歩んでいます。どんな悪事でも平気で行い、大口をたたき、彼らが少しでも人をほめるとすれば、相手から何かをもらおうという魂胆がある時だけです。」(16節)