2サムエル24:15-25

「その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のために祭壇を築きなさい。」」(24:18)

「アラウナの打ち場」、それは滅ぼす御使いが手を引いた場所でした。(16節)

その場所に祭壇を築くことをダビデは命じられました。

それは、礼拝はすべての人に、王にも要求されているということです。

ダビデが「費用もかけずに、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはない。」(24節)と言ったように、代価なしの礼拝は価値のないものとなってしまいます。

ダビデは正当な代金を払ってその地を買い、いけにえを捧げました。

後日、この場所に神殿が建てられます。

聖書は言います。

主が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった。」(24:25)

2サムエル 24:1-14

「さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。」(24:1)

人口調査をしたことがどうして罪なのか明確に記されていません。

報告が軍事力という観点からされていることから、王の傲慢さの罪だと考えられています。

神よりも兵力に頼ろうとする不信仰な態度が罪とされたと考えられます。

もっとも、「ダビデをそそのかして」とあることから、その背後に民の罪を指摘する学者もいます。

民の罪のゆえに、民を罰するために、ダビデを動かしたというのです。

いずれにせよ、罪は罰を免れることはありません。

だから、イエス・キリストは人となり、十字架にかかり、死ぬ必要がありました。

「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:3)

2サムエル 23:13-39

「三人の勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、」(23:16)

ダビデの勇士たち三〇人のリストです。

ダビデの活躍の背後にはこれらの勇士たちの存在がありました。

偉大な説教者の背後にも、ダビデの勇士たちのような祈りの勇士たちの存在があります。

E.M.バウンズは言います。

「真の使徒的説教者は、自分の伝道に完全な成功をもたらすために他の信仰深い人々からの祈りが必要であることも、パウロの例から分かります。彼は、神の聖徒たちからの助けを必要として、熱く懇願しました。(中略)彼は彼らの祈りがどうしても必要でした。」

祈りは霊的な戦いです。

また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」(エペソ6:19)

部屋の主はだれか

先日は4年ぶりにノリさんとバービーさんと再会。

わたしたち夫婦にとっては20年来の友人でもあります。

お二人には、うちの息子たちと歳の近い娘さんが二人います。

お互いの近況を話していた時、子どもたちが巣立った後の部屋の状態のことで大いに盛り上がりました。

我が家の息子たちは最後まで二人部屋だったのですが、次男は特にリモートでの授業続きだった大学入学から2年間をカーテンをほぼ開けることなく薄暗い部屋でアナグマのような生活をしていました。

ですから息子たちの部屋は薄暗い日当たりの悪い部屋、湿気が強い部屋という印象で、なるべく入らないようにしていました。

ところが二人ともいなくなりカーテンを開けて大掃除をしていたところ、ここがうちで最も日当たりが良く一日中明るい部屋だということがわかったのです。

今はカーテンを開け、窓を開けて夫が書斎として気持ちよく使っています。

賛美と光が溢れる部屋。

同じ部屋がここまで変わるものなのかと驚いています。

私たちの心の部屋も、誰が住んでいるかで全く違うものになると思います。みなさんの心の部屋の主はだれですか?

(小山晶子牧師人)

2サムエル 23:1-12

「主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある。」(23:2)

ダビデの「詩篇」が正典に含まれているように、聖霊の働きの下でダビデが語ったことは、聖霊に属します。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」(2ペテロ1:21)

ダビデが書いたのですが、聖書の本当の著者は、聖霊なる神であるということです。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(2テモテ3:16)

ペンテコステの日、そのことを理解していた使徒ペテロはダビデの詩篇を引用して言います。

しかし、彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人がメシヤとなり、ダビデの王座につくと神が誓われたことを知っていたのです。」(使徒2:30LB)

聖書は神の言葉です。

今日は主の日、聖霊降臨日(ペンテコステ)、教会の誕生日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル 22:29-51

「あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。」(22:30)

「神によって」は、「神と共に」と訳すこともできます。

神によって、もしくは、神と一緒ならば、どんな壁も飛び越えることができるというのです。

イエス様は言われました。

「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)

使徒パウロも言いました。

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

人には突破できないように見えるどんな障壁も、神によって、神と一緒ならば、突破することができます。

このダビデの晩年の告白は、ダビデ自身もいろいろな壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。

ダビデはいろいろな壁にぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒なら大丈夫ということを確信していったのだと思います。

私たちは父、子、聖霊の三位一体なる神が必要です。

2サムエル 22:17-28

「主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました。」(22:17)

主なる神は、天におられるいと高きお方です。

しかし、この地にその御手を伸ばして引き上げてくださるお方です。

イエス様の弟子のペテロは、文字通り、イエス様が御手を伸ばして、彼を捕らえ、大水から引き上げられる体験をしました。(マタイ14章参照)

ペテロが助けを求めたとき、イエス様が手を伸ばして、彼をつかんで引きあげてくれたように、ダビデも、

「苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ」(6節)

その時に、主が手を伸ばして、彼を捕らえ、引きあげてくださったと告白しているのです。

「大水」、それは、自分よりも強い勢力を象徴します。

神はどんな強い勢力からも助け出してくださいます。

聖書が教えていることは、主なる神は、主を呼び求めるすべての人に、その御手を伸ばし、しっかり捕まえて、引きあげてくださるお方ということです。

2サムエル 22:1-16

「主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。」(22:1)

ダビデ王が晩年、人生を振り返った時に、様々な敵から神が救い出されたことを回想して、この詩を書いたと言います。

「特にサウルの手から」とありますが、ダビデにとって、サウル王から命を狙われたことは大きな悩みでした。

ダビデは、そもそもサウル王に命を狙われる理由はありませんでした。

ダビデは、サウル王の忠実な部下であり、サウル王の娘と結婚した、親族でもあったのです。

ところが、サウル王はダビデを妬み、彼に槍を投げました。

そして、サウル王は死ぬまでダビデの命を狙い続けました。

ダビデがこの詩を書いたのは、救い出してくださる神がおられることを証するためだと言います。

ダビデが体験したように、プレッシャーを感じている人が、生ける神を見上げることができるためだと言います。

2サムエル 21:15-22

「ペリシテ人が再びイスラエルに戦いを仕掛けたことがあった。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。」(21:15)

 ダビデの戦いは、人生の後半にもなくなることはありませんでした。

ダビデが疲れ果てていたところに、敵は向かってきましたが、ダビデの部下たちがダビデを助けたと言います。

この箇所に出てくるペリシテ人たちは、特殊な能力を持った勇士たちでしたが、主は勝利を与えられたと言います。

聖書は言います。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」(ローマ15:4,5)

互いに祈り合い、励まし合い、助け合うことができますように。

2サムエル 21:1-14

「ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった。それで、ダビデは主の御顔を求めた。主は言われた。「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」」(21:1)

 この地上に起こるすべての災害を何かに関連づける必要はありません。

しかし、民の霊的な状態がこの世界に起こる出来事の根本にあることもまた事実です。

道徳的な腐敗はこの地を荒れ廃れさせます。

「そのため、ダビデが特別に時間をかけて祈ったところ、主は答えました。」(1節LB)と聖書は言います。

私たちに求められていることは、時間をかけて祈ることです。

神は言われます。

わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」(2歴7:14)

私たちの国は癒しが必要です。

へりくだり祈る人が必要です。