2サムエル 20:14-26

「女は言った。「昔、人々は『アベルで尋ねよ』と言って、事を決めました。」(20:18)

 シェバの反乱は失敗に終わり、彼はアベルという町に避難しました。

それで、ヨアブの軍は町を包囲し、その城壁を破壊するところでした。

すると、その町の一人の知恵ある女性がヨアブと交渉をします。

実は、昔から『物事に決着をつけたければ、アベルの人に聞け』と申すのでございます。いつも、私どものお勧めすることが理にかなっているようでしてね。私どもの町は、昔から平和を愛し、イスラエルに忠誠を尽くしてまいりました。今、この町を攻めるおつもりですとか。どうして、この神様の町を滅ぼそうとなさるのですか。」(18,19節LB)」

「アベルで尋ねよ」ということわざが正確に意味しているところは分かりませんが、アベルの人たちはその知恵で有名だったということです。

聖書は言います。

知恵の初めそれは主を恐れること。」(詩篇111:10)

知恵によってアベルの町は滅びることはありませんでした。

2サムエル 20:1-13

「アマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。」(20:5)

ダビデは、自分に反乱したアブサロムの軍団長、アマサをヨアブの代わりに軍団長に任命しました。

ダビデの軍団長だったヨアブは、ダビデの願いを無視してダビデの息子アブサロムを殺害したため、左遷されたのだと考えられます。

しかし、アマサは三日のうちに軍を召集する命令をうけたのに、間に合いませんでした。

そのため、ダビデはヨアブの弟、アビシャイに任務を与えます。

アマサがどうして間に合わなかったのか、理由は記されていません。

しかし、チャック・スミス師は、この箇所からこんなことを言っています。

神が命じられたならば、すぐ行動を起こすことは大事なことです。もし、神があなたに何かを語ってるなら、今それをしましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

最近思うこと

身近な方を天に送ることが増え、自分自身も生まれて半世紀がたったということもあり、最近御国のことに想いを馳せることが以前より増えてきました。

そんな中でふと考えたことは

死んだからといって突然良い人になるわけではない

という事です。

クリスチャンはイエス様によって救いの恵みを受け、永遠の命を与えられるのですが自分の性質は死んだら無条件に整えられ、御国に相応しくなれるわけではないという事に遅ればせながら気付かされ考えさせられています。

聖書に書かれているキリスト者の性質、つまり神を愛し互いに愛し合うということは御国の民としてこの地上で学ぶべき必要不可欠な条件でありその準備のためにここでの時間が与えられていると言えるのかもしれません。

今という時が御国の民としての準備、訓練の時間だと考えるとこれまで以上に試練や苦しみも前向きに受け止められるのではないかと思うのです。

聖霊様に委ねて、練られるべき性質を捏ねていただき日々御国の民として相応しい者へと変えられていく歩みは、今日も希望に満ちています。

(小山晶子牧師人)

2サムエル 19:31-43

「イスラエルの人々はユダの人々に答えて言った。「われわれは、王のうちに十の分を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っている。なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言い出したのは、われわれではないか。」しかし、ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばより激しかった。」(19:43)

イスラエルの十部族とユダ部族は、ダビデ王の孫の時代に分裂します。

この箇所にあるように、この時すでに対立していたことが分かります。

彼らはダビデ王に忠誠を誓っているように見えますが、ダビデ王を巡って争っています。

しかもそれまでは、ダビデ王に対して争っていました。

残念ながらこのように手のひらを返したようなことが起こります。

ですから、使徒パウロが

キリストの愛に動かされて行っているのです。」(2コリント5:14LB)

と言うように、キリストの愛に動機づけられることが大切です。

2サムエル 19:16-30

「王は彼に言った。「あなたはなぜ、自分のことをまだ語るのか。私は決めている。あなたとツィバとで地所を分けるのだ。」」(19:29)

ツィバはメフィボシェテがダビデが王位を失ったことを喜んでいたと告げました。(16:3)

メフィボシェテは、ツィバが自分を「たぶらかした」(26節)と言いました。

ダビデは最初、ツィバの話を信じていました。

しかし、メフィボシェテの話を聞き、どちらかが偽っていることが分かりました。

ところが、ダビデは誰が正しいことを言っているかを気にしませんでした。

証人を呼ぶこともしませんでした。

ダビデはそんなツィバもメフィボシェテも両方を受け入れたのです。

ユージーン・ピーターソンはこのように言います。

ダビデは、『純粋な教会』を持つことにこだわらなかった。これは特徴的なダビデ的注釈であり、福音の先取りである。

赦し合い、愛し合うことによって神の国は建て上げられていきます。

2サムエル 19:9-15

「すべてのユダの人々は、あたかも一人の人のように心を動かされた。彼らは王のもとに人を遣わして、「あなたも家来たちもみな、お帰りください」と言った。」(19:14)

ダビデは即座にエルサレムに戻って王座に着いたわけではありませんでした。

ダビデは民が連れ戻すのを待っていました。

ダビデは民に言います。

なぜ王を連れ戻すのをいつまでもためらっているのか。

イエス様はまことの王としてこの世に来られたのに、人々はイエス様を拒絶しました

。聖書は言います。

この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:11,12)

人は、イエス様を王として迎える必要があります。

イエス様を王として迎えた者だけが、神の子どもとなる権威をいただくことができます。

2サムエル19:1-8

「ヨアブは王の家に来て言った。「今日あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、そして妻や側女たちのいのちを救ってくれたあなたの家来たち全員に、あなたは今日、恥をかかせられました。」(19:5)

ダビデ王は、勝利した味方よりも反乱者であり敵であった息子のアブサロムの死を悲しみました。

そんなダビデの姿を見て、ダビデのために戦った人たちはどう反応していいか分からなくなってしまいました。

ヨアブはそんなダビデに、自分の感情を優先させるのではなく、自分のために戦ってくれた人々に感謝しなければ、もう誰もダビデの周りにはいなくなると注意しました。

時として指導者は、個人的な傷や悲しみに打ちのめされてしまう時があります。

そんな時、ヨアブのように叱咤激励してくれる人を必要としています。

たとえ自分の痛みや苦しみに悩んでいたとしても、支えてくれている人々に対して感謝を忘れることがありませんように。

2サムエル 18:24-33

「王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」」(18:33)

アブサロムは反乱者であり、ダビデを殺そうとしていました。

しかし、ダビデの息子アブサロムに対する愛は、それに勝る深いものでした。

アブサロムは私たちの型でもあります。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

私たちも神に反乱し、神に敵対していました。

しかし、神の愛はもっと深いものでした。

神の御子イエス・キリストは、文字通り、私たちに代わって死んでくださいました。

神は私たちを赦し、回復を与えたいと願っておられます。

2サムエル 18:16-23

「アヒマアツは低地への道を走って行き、クシュ人を追い越した。」(18:23)

ダビデ王のもとに、ヨアブは最初、クシュ人(エチオピア人)を伝令で遣わしました。

しかし、勝利の報告をどうしても伝えたかったアヒマアツは、ヨアブに頼み込んで、自分もダビデのもとに行くことを許可してもらいました。

後から出発したアヒマアツは、低地への道を走って行ったので、クシュ人を追い越したと聖書は言います。

つまり、クシュ人は丘を登り谷を下ったために、時間がかかってしまったのです。

スポルジョン師はこんなことを言っています。

私の霊の旅はどうであろうか。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下っていないだろうか。それとも私は、『信じて、生きよ』との平坦な道を走っているだろうか。・・・この箇所を読んで気づくことは、もし人がささいな問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。

フラミンゴ

世の中がゴールデンなウイークを終え、日常が戻ってきた先週月曜日、10年ぶりに八景島シーパラダイスに行ってきました。

みなさんご存知のようにわたしは動物をはじめ生き物全般が好きなのですが、一番行きたい動物園は大抵月曜が休園日なのです。

久しぶりに行ったシーパラはあまり変わってなくて、しかも寒かったせいもあってかほとんど人もおらず、ゆっくり生き物を観察することができました。

神様の創造のバリエーションの豊富さに感動しっぱなしでした!

水族館から外に出るとミーアキャットやカピバラ、フラミンゴなどがいるエリアが。

ドアで仕切られているので一部屋づつ入って至近距離で動物たちを観察できるという夢のような場所です。

しゃがんでカピバラの写真を撮っていると右足に何かが擦れている感覚が。

「?」と思いそっと目をやると綺麗なピンク色のフラミンゴが頭や首をすスリスリしているのが見えました。

なんてかわいいんだ、、、触りたい。

でも、「フラミンゴを撫でないでね」という張り紙が。

しばらく悶絶タイムを過ごしたのち、フラミンゴは係のお姉さんに連れて行かれました。あーあ。

(小山晶子牧師人)