2サムエル 14:12-24

「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。しかし、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます。」(14:14)

人間は死亡率一〇〇%です。

その時が来たら、地面にこぼれた水のように、もう集めることはできません。

この章に出てくる女性はダビデに、彼の息子に対する苦々しい思いを持ち続けることを警告しています。

和解の機会を逃してしまう前に、和解の計画を立てるようにと。

家族が別れ別れになってしまうのは悲しいことです。

私たちは見知らぬ人より、愛する人に対して厳しい目で見やすい傾向があります。

神は私たちが神に敵対していた時に、私たちにイエス・キリストを与えてくださり、追放されたままにしておかないように、赦しと和解のご計画を立ててくださったことを覚えます。

2サムエル 14:1-11

「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブサロムに向いていることを知った。」(14:1)

アブサロムをイスラエルに連れ戻すことは、政治的にも、司法的にも問題があることでした。

しかし、ダビデの思いはアブサロムに向いていました。

それで、ダビデの軍の将軍であるヨアブはテコアの女性を用いてダビデの感情に訴えます。

どうか王様。あなたの神、主に心を留め、血の復讐をする者が殺すことを繰り返さず、私の息子を消し去らないようにしてください。」(11節)

感情的に罪をうやむやにしていいわけではありません。

罪に対する代償は支払う必要があります。

ですから、神の御子、イエス・キリストは、私たちの罪の代償として、あの十字架で死ぬ必要がありました。

神は私たちの罪をうやむやにされたわけではありません。

イエス様が代わりに支払ってくださったのです。

そのことを私たちは忘れるべきではありません。

2サムエル13:30-39

「アブサロムのところに向かって出て行きたいという、ダビデ王の願いはなくなった。アムノンが死んだことについて慰めを得たからである。」(13:39)

タマルの事件によって憎しみを抱いていたアブサロムはアムノンを殺しました。

恨みや憎しみを取り扱うことなく放置するならば悲劇を生みます。

聖書は言います。

あなたがたのうちのだれも、神の祝福を失わないよう互いに注意し合いなさい。あなたがたの間に、憎しみや悪意がはびこらないよう十分に警戒しなさい。それは、多くの人の信仰生活に害を及ぼすからです。」(ヘブル12:15LB)

ダビデはアブサロムの苦い根を扱うためでなく、アムノンの死のことをあきらめます。

ダビデは、アムノンの死についてしばらく嘆き悲しんでいましたが、ようやくあきらめがついたのか、アブシャロムに会いたいと思うようになりました。」(LB)

これは、さらなる悲劇の序章でしかありませんでした。

苦い根は取り扱われる必要があります。

2サムエル 13:15-29

「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。」(13:21)

ダビデはアムノンがしたことを聞いた時に、「激しく怒った」とあります。

聖書は、「激しく怒った」以外にダビデがしたことは何も書いていません。

子どもたちをしつける時に、怒りに身を任せてはいけませんし、しつける時は、心を落ち着かせてから行うべきです。

怒鳴るだけでは何も意味がありません。

もっとも、ダビデが何もしなかったのは、自らの罪のゆえだったかもしれません。自分には子どもたちを注意する資格はないと思ったのかもしれません。

しかし、このようなダビデ症候群には気をつける必要があります。

どんなに失敗や過ちを過去に犯していたとしていても、注意すべき時に注意することは大切なことです。

さらに、ダビデはこのことを聞いて、神に祈ったとも書いてありません。

ダビデは激しく怒るだけでなく、神の前にとりなして祈るべきだったことは明らかです。

2サムエル 13:1-14

「その後のことである。ダビデの子アブサロムに、タマルという名の美しい妹がいた。ダビデの子アムノンは彼女に恋をした。」(13:1)

アムノンはタマルに「恋をした」とありますが、愛したとは言いません。

彼女の美しさに情欲を抱いただけで、愛していたわけではなかったからです。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」(1コリント13:4-7)

アムノンはタマルを愛していたわけではなかったので、自分の情欲を満たしたら、激しい憎しみにかられて彼女を追い出します。

愛ならば、「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」