使徒 5:17-42

「そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった。」(5:42)

「キリスト」は名前ではありません。

へブル語では「メシア」、「油注がれた者」という意味です。

イエスがキリストであると教え、宣べ伝えること

とは、イエスこそ旧約聖書が知らせてきたイスラエルの「メシア」、「救い主」ということです。

イエス様はご自身の宣教の始まりにこう言われました。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

「神の国」とは「神の統治」のことです。

要するに「メシア」としての統治の始まりを告げました。

使徒たちは、イエスの十字架の死と復活によって「神の統治」がこの地にもたらされているという良き知らせを宣べ伝え続けました。

ですから、イエス様が宣べ伝えられたことと、弟子たちが宣べ伝えたことは同じです。

イエスがキリストであるということです。

使徒 5:1-16

「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」(5:11)

アナニアとサッピラの厳しい裁きの話は、同時代の人々にとってもそうだったと思いますが、私たちにとっても心が痛む話です。

注意すべきことは、この裁きは、ペテロがくだしたことでも、教会がくだしたことでもなく、神がなされた裁きであったということです。

重要な点は、神はどんな偽善も憎まれるということです。

聖霊を欺こうとする偽善はなおさら憎まれるということです。

使徒の働きは、単に理想的な教会を提示しているわけではありません。

初代教会では、それぞれの必要を共同体の分かち合いによって満たしていましたが、その分かち合いに問題があったこと(六章参照)を記録しています。

私たちはいつの時代も、神を恐れ、祈りつつ、教会形成をしていかなければならないということです。

使徒 4:23-37

「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」(4:29,30)

ユダヤ人議会(サンヘドリン)は使徒たちに、

「イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。」(18節)

とあります。

脅された彼らは、教会として、一つになって祈りました。

彼らの祈りは第一に、

あなたのみことばを大胆に語らせてください

ということでした。

宣教は、聖書の御言葉を大胆に語ることから始まります。

そして、もう一つは、

イエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください

ということでした。

イエス様の御名によって祈るならば、癒やしとしるしと不思議が伴います。

イエス様の御名があがめられるために、主よ、私たちを用いてください。

使徒 4:13-22

「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。」(4:13)

「無学な普通の人」という意味は、当時、ヒレルやシャンマイといった専門的なラビの学校で技術的な訓練を受けていた人ではないという意味です。

イエス様もユダヤ人たちから、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」(ヨハネ7:15)と言われました。

神の御子、イエス様と三年半共にいたことは、専門的なラビの学校に行くよりも学問があったことが分かります。

教会から離れて聖書やキリスト教をどんなに研究しても、イエス様と共にいる人たちの学問にまさることはありません。

もちろん、これは聖書を学ばなくても大丈夫という意味ではありません。

聖書は祈りながら学ぶものであり、学びながら祈るものということです。

使徒 4:1-12

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(4:12)

使徒たちは、イエス・キリスト以外に救いはないことを宣言しました。

ユダヤ人議会(サンヘドリン)は、

「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」(7節)

と尋問しました。

皮肉にも彼らが認めていた彼らよりも上の権威は、支配者であるローマ帝国だけでした。

ペテロは「聖霊に満たされて」(8節)大胆に語ります。

「神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。」(10節)

歴史は繰り返します。

ルターも、時の神聖ローマ帝国の帝国議会から尋問を受けます。

ルターも聖霊に満たされて大胆に語ります。

宗教改革のスローガンの一つは「キリストのみ」です。

祈るのみ、なのですが

次男が病気になってちょうど2週間。

1週間以上の高熱とリンパの痛みで本人は疲労困憊していますが、ようやく熱が下がり始め食事も少し取れるようになりホッとしています。

この間5回病院に行き新型コロナ、インフルエンザ、溶連菌など様々な検査を行いました。

原因がわかったことは安心材料でしたが手の打ちようがない、薬が存在しないということが驚きでした。

病院の先生もネットでも答えは同じ「安静にするしかない」「脾臓が破裂しないよう運動はしない」という対処療法のみ。

もう、祈りしかないじゃないか!

とわたしが信仰強く祈りに専念できているかというと情けないことにそうではありません。

苦しむ次男を目の前にすると平安と不安に繰り返し襲われています。

そんなわたしにビブリオンで開いた御言葉はとても心に響きました。

「するとイエスは言われた。『できるものなら、というのか。信じるものにはどんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰なわたしをお助けください。』(マルコ福音書9章)」

みなさまの祈りに支えられる日々です。

(小山晶子牧師人)

使徒 3:11-26

「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」(3:16)

ペテロは言いました。

「皆さん。どうして、そんなに驚くのですか?なぜ、私たちが自分の力や信仰深さによって、この人を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。この奇跡は、アブラハム、イサク、ヤコブの神様、つまり私たちの先祖の神様が、そのしもべイエスに栄光を与えるためになさったことです。」(12,13節LB)

ペテロは人々の注意を意図的に自分自身からそらしました。

これは、特別な力や信心深さの話ではなく、あくまでもイエス様の御名によると。

イエス様を通して与えられる信仰を通してもたらされる奇跡の世界であると。

福音はイエス・キリストに関するものです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 3:1-10

「すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」」(3:6)

生まれつき足の不自由な人が癒やされました。

それは、神が働かれている以外に説明することができない奇跡でした。

福音と奇跡は切り離すことはできません。

ペテロは施しを求められた時、自分の可能性ではなく、イエス・キリストを指し示しました。

私たちもペテロと同じように、私たちの必要に唯一答えることができる生ける神、主イエス・キリストを指し示すことが重要です。

私たちは金銀でその人の必要を満たすことはできません。

しかし、イエス・キリストは、その人の本当の必要に答えることができます。

福音と奇跡は、今も、継続しています。

使徒 2:37-47

「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(2:42)

ペテロの伝道説教に人々は応答し、その日3千人の人が悔い改めてバプテスマを受けました。

彼らはいつも使徒たちの教えを守っていたと言います。

現在、私たちが手にしている新約聖書は使徒たちの教えを集めたものです。

ですから、新約聖書を学び、生きていくということは、初代教会の信徒たちと同じように、使徒たちの教えを守っているということです。

このように教会は二千年間、聖書の学び、信徒の交わり、聖餐、祈りに専念してきました。

そして、

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(2:47)

伝道説教は今も変わりません。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(2:38)

使徒 2:22-36

「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(2:32)

使徒2章は、使徒ペテロによる最初の伝道説教です。

この伝道説教から分かるように、福音(ゴスペル)説教とは、人々にイエス・キリストについて語ることです。

イエス・キリストが福音メッセージの内容です。

イエス・キリストは十字架にかかり死なれましたが、三日目に死の力を打ち破りよみがえられました。

これが、私たちが語る福音です。

福音は、イエス・キリストについて語ることであり、イエス・キリストが誰であるかを宣言することです。

「キリスト」は「油注がれた者」という意味で、イスラエルの民が待ち望んでいたダビデに約束した「メシア」(救い主)を指します。

イエス・キリストこそ神の御子、救い主です。