使徒 2:14-21

「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(2:17)

聖霊に満たされた若い人は幻(ビジョン)を見るようになり、聖霊に満たされた老人は夢を見るようになると言います。

以前、チャック・スミス先生が、息子さんに

「いつになったら、ビジョンを見るようになるんだ」

と言ったら、

「お父さんはいつになったら夢を見るようになるの?」

と言われたという話をしていました。

もっとも、ここでは「ビジョン」も「夢」も同義語として使われています。

つまり、聖霊に満たされた人は、年齢に関係なく、目に見える現実に縛られて生きていくのではなくて、神が与えてくださる「夢とビジョン」に生きていくようになるということです。

聖霊が注がれる時、私たちは神の夢とビジョンを見るようになります。

過去がどうであろうとも、現状がどうであろうとも、神は私たちに夢とビジョンを与えてくださいます。

使徒 2:1-13

「すると皆が聖霊に満たされ、」(2:4)

ペンテコステの日、みなが一つ所に集まって祈っていたその場所に聖霊様が臨まれました。

聖霊様は三位一体なる神の第三位格です。単なる力ではありません。

私たちに力を与え、満たす神です。

LBでは、

その場にいた人たちは、みな聖霊に満たされ

とあります。

どんなに技術が発達しても、その場所にいなければ、分からない霊的な雰囲気があります。

教会に集まり共に礼拝を捧げる、「その場」にいることに意味があります。

ペンテコステの日に満たされた人たちは異言で語りはじめたとあります。

多くの人は聖霊に満たされると異言で祈り始めます。

ある人は何かを感じ、ある人は何も感じません。

ただ、聖書は、皆が聖霊に満たされたとありますように、この終わりの時代、神はすべての人に聖霊を注がれています。

もっとも、私たちは漏れる器ですから、日々、聖霊様を歓迎し、聖霊様に満たされて歩む必要があります。

使徒 1:12-26

「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、」(1:14,15)

教会の始まりは祈り会でした。

神は私たちの祈りを用いられます。

日本におけるプロテスタント教会も祈り会から始まりました。

一八七二年の出来事です。

「バラ師の指導の下に、数名の学生有志の男女相集りて使徒行伝の講義を聴き、熱烈なる説明に感じて互に相祈りつゝありしが、出席者以外に多く、少なきも二十名、大きは三四十名に達する盛況を呈し、祈祷につぐに祈祷を以てし、感激の念、熱誠の情あふるゝばかりにして感興尽くる時なく、予定の一週間の祈祷会は、延いて数週間の長さに亘りて尚止まず、祈祷会の進行につれて熱情ますます加わり、中には感泣して神に祈り、初代教会設立当時のペンテコステの日の如く、日本にも聖霊の降臨ましまして切支丹禁制の此の異教の地に、救世主耶蘇基督の御栄光のあらわれんことを切願せしも少なからざりしが、その応験とや言わん、不思議にも爰に数名の回心者を起し、遂に基督公会の設立を見るに至りぬ。」(出典:https://www.revival.co.jp/rj/2009/05/post-44.php )

「恵みの雨」

きょうの特別賛美は小坂忠先生の「恵みの雨」。

とても思い出深く歌詞もメロディも本当に美しい曲なので、皆さんにも是非じっくりと聴いていただきたいです。

この世での日々に疲れ、生きづらさを感じている乾ききった私たちの心に、あたたかい優しい雨が静かに降り注ぐ、、、神様の愛を感じることのできる賛美だと思います。

神の恵みの雨が 音もなく降る
乾ききった地の上世界の都市(まち)に
神のいのちの雨が 豊かに降る
冷たく冷えた愛の 心を燃やす

すべての国の すべての人を
つつみこんでいる キリストの愛
雨のようにきょうも降りつづく

神のきよさの雨が 優しく降る
疲れきった頬から 涙をぬぐう

秋本ビル開所式、むせ返るような暑さの中で忠先生が弾き語りしてくださったあの日を思い起こしながら。

(小山晶子牧師人)

使徒 1:1-11

「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。」(1:9)

復活したイエス様は四〇日間いろいろな場所で弟子たちに現れました。

ペンテコステの日の十日前、イエス様は弟子たちが見ている間に天に上げられ、見えなくなりました。

イエス様の昇天はペンテコステを理解する上でとても重要です。

使徒ペテロはペンテコステの出来事をこのように説明しました。

「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(2:33)

つまり、ペンテコステはイエス様が昇天されて、「神の右に上げられた」結果ということです。

「神の右に上げられた」と言う意味は、旧約聖書で預言されてきたダビデの子である来るべき王、メシアに与えられた王座に着座されたということです。

今日は主の日。共に御座に座す主に礼拝を捧げましょう!

哀歌 5:15-22

「主よ。あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの王座は代々に続きます。」(5:19)

廃墟という現実の中でエレミヤがしたことはまず、御座に座す主を認めたことでした。

「御座に着かれ」という意味は、神がすべてを治めておられるということです。

次に、神の恵みを思い返しました(20節参照)。

要するに、神は私たちを忘れることも、見捨てることもできないということです。

そして、主のみもとに帰らせてくださいと祈りました(21節参照)。

「主のみもとに帰る」こと、それが、「悔い改め」です。

私たちは神に降参して、神のみもとに帰る必要があります。

苦難、試練は、神のみもとに帰るためにあると言っても過言ではありません。

「私たちを連れ戻してください。神よ、あなたのもとに。私たちは戻る準備が出来ています。新たな始まりを私たちに与えてください。」(21節MSG)

神は、「新たな始まり」、「フレッシュ・スタート」を与えてくださる神です。

哀歌 5:1-14

「主よ。私たちに起こったことを心に留め、私たちの汚名に目を留めて、よく見てください。」(5:1)

預言者は主に「心に留め」てくださいと祈ります。

私たちに起こったことを「忘れないでください」ではなく、「現状を把握して、変化させてください」と祈ったということです。

なぜなら、主だけが汚名を取り除くことができるお方だからです。

イスラエルの未来は主の御手の中にあることを預言者は理解していたからです。

預言者は祈りの課題を挙げるように、主に訴えます。

主だけが状況を変えることができることを知っているからです。

私たちも預言者のように祈ることができます。

ユージーン・ピーターソンは、廃墟に直面しても私たちがパニックにならないように、廃墟が災いでないと学ぶ必要があると言います。

そして、神は罪を取り扱うことによって私たちの人生を全面的に回復されるから、癒しを焦ってはいけないと言います。

哀歌 4:11-22

「主は憤りを出し尽くし、燃える怒りを注ぎ出された。主はシオンに火を放ち、火はその礎を焼き尽くした。」(4:11)

哀歌は苦しみが扱われているのと同時に神の怒りとの遭遇が歌われています。

ただ、神の怒りの結果としてエレミヤは祈りに導かれています。

苦しみの中で、悔い改め、神の贖いを求めています。

神の怒りは神が気にかけておられる証拠です。

神は私たちのことに関心をもっておられるがゆえに怒られるのです。

神は個人的に私たちに関わり、絶望から引き上げ、悔い改めに導き、信仰に、そして、希望に導こうとされています。

だから、状況ではなく、誰かではなく、自分の感覚でもなく、聖書の御言葉に耳を傾ける必要があります。

当時の偽預言者たちは、人々が聞きたがる言葉を語り、滅んでしまいました(13節)。

だから聖書は言います。

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(2コリント7:10)

哀歌 4:1-10

「高価であり、純金で値踏みされるシオンの子らが、ああ、土の壺、陶器師の手のわざと見なされている。」(4:2)

「シオンの子ら」がいかに高価かを、純金で計られるという比喩で表現しています。

本来は高価で尊いものとして特別に扱われるはずが、罪のゆえに、土の器のように雑に扱われていると嘆いています。

神は人を「神のかたち」に造られました。

神は「非常に良かった」(創1:31)と言われました。

しかし、人は神に背き、その罪のゆえに、「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」(創3:19)と言われてしまいます。

聖書は言います。

人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリ3:16-18)

哀歌 3:55-66

「私があなたを呼び求めると、あなたは近づき、『恐れるな』と言われました。」(3:57)

原文を直訳すると、

「あなたは近くに来られた。私があなたを呼んだその日に。」

となります。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え」(エレミヤ33:3)

と約束された主は、確かに、私たちの祈りに答えて、私たちの近くに来てくださいます。

そして、『恐れるな』と言われるとあります。

同じ表現がエレミヤ書に出てきます。

「わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」(1:7,8)

神は、恐れの中にいる人、傷ついている人を慰められるお方です。

今日も、『恐れるな』という言葉をもって私たちを励ましています。