哀歌 3:40-54

「私たちは背き、逆らいました。あなたは赦してくださいませんでした。」(3:42)

イスラエルの民の問題は、自分は間違っていないと自分を正当化していたことでした。

彼らは神が赦してくださらないのが不当だと不満を述べていたのです。

彼らの

「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」(40節)

という発言も、口先だけでした。

だから、神が祈りを聞いてくださらないから自分たちは「ごみ屑」(45節)のように扱われていると不満を言ったのです。

私たちは神は神であることを認める必要があります。

人は人であり、永遠に神になることはありません。

神はいつも正しく、人はすべてを理解することはできません。

だから、聖書は言います。

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

決まりました

父の洗礼式の日程が決まりました。

今月28日(水)午後2:30〜尾上聖愛教会で行われます。

家族みんなで立ち会いたい、という私たちの意向を母教会側も快く受け入れてくださいました。

本当に感謝です。

父の信仰決断の背景に父親(わたしの祖父)の影響が大きくあったことも改めて知りました。

祖父は戦前キリスト者となり旧満州でも、終戦末期からシベリアに抑留されていた時も信仰を手放すことなく、戦後も誠実に、最期まで神と人とに仕え教会を支えた人でした。

彼は死にましたがその信仰によって今もなお語っています

という聖書の言葉を思い出し、どんなにか天の御国で祖父が喜んでいるだろうと考えるだけで泣きそうです。

ギャンブルとアルコール依存症、わたしと姉への度重なる暴力など本当に大変な父でしたが、神様は全てを働かせて益としてくださることを見せてくださいました。

あんなうちの父が救われたのです。

皆さんの愛する方々も必ず、救われます。

そのことに希望を持ち、主に信頼し、祈りの手を、声を上げ続けていきましょう。

全てを主に感謝しつつ

(小山晶子牧師人)

哀歌 3:19-39

「それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」(3:23)

ある牧師は、神が睡眠をとるように人間を造った理由をこう説明します。

「十六時間もたてば、人はいろいろと失敗して、新しく始め直す必要があることを、神が知っていたからだ」。

毎朝、毎朝、

「この日は主が造られた!」

と新しいスタートを切る事が出来ることは、素晴らしい神のあわれみの世界です。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)

と信じることができることは幸いです。

メッセージ訳では

それは朝ごとに新しい。

というのを、

それらは毎朝、新しく造られる

と訳しています。

神の恵みの世界は、毎朝、新しく造られると言います。

神は無から有を造られる創造主です。

道なきところに道を造られるお方です。

神はご自身の真実をもって、創造的に、偉大な恵みの世界を毎朝つくっておられます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

哀歌 3:1-18

「私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、」(3:8)

聖書を読むときに、私たちが注意しなければならないことを、聖書が文学的に書かれているということです。

哀歌は、歌であり、私たちの感情部分を扱っています。

つまり、今日の箇所が教えていることは「祈りは聞き入れられない」という内容ではありません。

苦難の中で、信仰の先輩たちもまた、そのように感じることがあったということを教えているのです。

実際、この直後、エレミヤは言います。

「主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。」(3:25)

ですから、たとえ聞き入れられていないと感じることがあっても、祈り求め続ける姿勢が大切です。

主を求めるたましいに、主はいつくしみ深いからです。

主は必ず答えてくださいます。主の信実は尽きません。

「それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」(3:23)

哀歌 2:18-22

「夜、見張りの始まりに、立って大声で叫べ。あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたるところで、飢えのために衰えきっている。」(2:19)

愚かな大人たちの決断によって、幼子たちが苦しむという構図は、昔も今も変わりません。

バングラデシュの村の教会を訪問するたびに、幼子たちが、明らかに栄養失調のような体で微笑みかけるのを見るたびに、私は、心苦しくなります。

もっとも、物質的な飢えも問題ですが、日本でも、霊的飢餓状態に陥っている現状を心に留める必要があります。

神の御言葉を食す機会もなく、霊的飢えのために弱り果てている子どもたちがいることを、私たちは心に留めたいと思います。

聖書は言います。

「あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。」

私たちは神の前に降伏し、祈るように求められています。

哀歌 2:11-17

「あなたの預言者たちは、あなたについて、むなしい、ごまかしの幻を見た。あなたの咎を暴いて、あなたを元どおりにしようとはせず、あなたについて、むなしい宣告と、惑わすことばの幻を見た。」(2:14)

イスラエルの偽預言者たちの問題は、民の聞きたいことを語っていたということです。

「あなたの罪を指摘して、何とかしてあなたが奴隷にならないようにしようと、努力することもありませんでした。うそを並べ立て、万事うまくいくと言ったのです。」(LB)

罪の中に生きている人たちに必要なのは、安心させる言葉ではありません。

なぜなら、罪から立ち返らなければ滅びしかないからです。

たとえ耳に心地よい言葉でなくても、真理を語る必要があります。

教会は人をいい気持ちにするためにではなく、人々を主に立ち返らせるために、神の真理のことばを真っ直ぐに語る責任があります。

哀歌 2:1-10

「主は、その祭壇を拒み、聖所を退け、その宮殿の城壁を敵の手に引き渡された。例祭の日のように、彼らは主の宮で声をあげた。」(2:7)

礼拝をないがしろにすることは、神ご自身をないがしろにすることです。

LBではこの箇所をこのように訳しています。

主はご自分の祭壇から顔を背けました。形ばかりの礼拝に失望したからです。主は宮殿を敵の手に渡しました。彼らは、例祭の日にイスラエル人がしたように、神殿で飲み騒ぎました。

イスラエルの民の誤解は、神殿があるから、形式的でも例祭を守っているから大丈夫だと考えていたことです。

神は、罪を悔い改めて、神に立ち返らない民に対して、敵対されると言います。

神はご自分の民に向けて、まるで敵でもあるかのように弓を引きます。」(4節LB)

私たちは健全な畏れをもって主に立ち返る必要があります。

罪を選ぶことは、神に敵対することです。

神に敵対して良いことは何もありません。

哀歌 1:18-22

「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった。すべての国々の民よ、聞け。私の苦痛を見よ。若い女たちも、若い男たちも、捕らわれの身となって行った。」(1:18)

「主は正しい」方ですから、罪を罰せずに済ませることはできませんでした。

だから、神はそのひとり子、イエス・キリストを与えてくださいました。

イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって、あの十字架にかかり、死んでくださいました。

イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためです。

そして、イエス様は、死という絶望を打ち破り、よみがえられました。

私たちは十字架を見上げ、イエス・キリストを信じる者の希望が、失望に終わることはないことを思い起こす必要があります。

「主は正しい」お方です。

哀歌 1:12-17

「これらのことで、私は泣いている。私の目、この目から涙があふれる。元気づけ、慰めてくれる者が、私から遠く離れたからだ。敵に圧倒されて、私の子らは啞然とする。」(1:16)

 エレミヤは涙の預言者と言われます。

ただ、哀歌は共同体的です。

個人的な嘆きが、共同体の嘆きに組み込まれています。

これは哀歌だけでなく、聖書的です。

個人的な苦しみを共同体として共有することは聖書的です。

聖書は言います。

「泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12:15)

共に泣くことを通して、この苦しみが何かを意味するものであることを人は共有します。

しかし、「私の魂を心配してくれる人が周囲に一人もいない場合」(MSG)、苦しみは意味を失ってしまいます。

苦難に対処するための聖書的な方法は、個人的なものを、集団的なものに変換することです。

ですから教会として、祈祷課題を挙げて共に祈り合うことは互いに重要なことです。

父帰る

実家の父が洗礼を受けることになりました。

およそ2年ぶりの帰省、コロナの影響もあり父の入所している施設に行くのは今回が初めてでした。

母と直接会うのも3年ぶり。

母らしい規則正しい生活の様子を見て安心しました。

初日、宝殿駅から直接施設に行き15分という限られた時間の中ではありましたが近況を語り合い、最後は手を握って祈ることができました。

その時の、父が祈る姿勢やアーメン、と力強く応答する姿にいつもとは違う柔らかくてオープンな空気を感じていました。

これまでは頑なで神様にも心を開かない。

でも聖書の知識や価値観はある、という状態で、わたしが信仰の決断を促しても拒否する父でした。

けれども次の日の面会で母が

「信仰を持って洗礼を受けたら?」

といつものように問いかけると父が

「そうさせてもらおうと思う」

と。

あまりにも自然に応答したので私たちの方が驚いて聞き返してしまいました。

父のこの日のためにどれだけ多くの人が祈ってきてくれたんだろう。

自分の人生に主の主権を受け入れた父の顔は輝いて見えました。ハレルヤ! 

(小山晶子牧師人)