哀歌 1:1-11

「ああ、ひとり寂しく座っている。人で満ちていた都が。彼女はやもめのようになった。国々の間で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が、苦役に服することになった。」(1:1)

哀歌のヘブル語のタイトルは、一節の最初の一文字をとって「ああ」です。

これは預言者エレミヤのエルサレムの陥落に対する嘆きです。

「ああ、どうして。にぎやかな街だったのに、ゴーストタウンになってしまった。」

彼は四〇年間、人々に神に立ち返るようにメッセージし続けました。

しかし、人々は彼の言葉に耳を傾けることなく、エルサレムは陥落しました。

哀歌は、一章から四章まで、アクロスティックと呼ばれる、アルファベト詩になっています。

ヘブル語のアルファベットは二十二個しかありません。

二十二個使ったら終わりです。

つまり、悲しみも苦しみも、永遠ではない、必ず終わりがあるということです。

永遠なのは神の愛とあわれみだけです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

テトス 3:1-15

「また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。」(3:2)

神の民のあるべき姿を聖書は明確に述べています。

「侮辱しない、争わない。 神の民は大らかで礼儀正しくあるべきだ。」(MSG)

神は一人一人を異なる人格として造られました。

ですから、互いの違いを認めることは大切なことです。

少なくとも、互いに礼儀正しく接することはできます。

イエス様は言われました。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35新共同訳)

神の民は、キリストの愛によって共に生きることを学ばなければなりません。

それが福音宣教となります。

そのためには、私たちは信仰をもって天を見上げ、愛をもって外を見る必要があります。

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4:32)

テトス 2:1-15

「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」(2:13)

「祝福に満ちた望み」とは、この世界の終わりにイエス・キリストが再び来られる(再臨)ことです。

聖書は言います。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ペテロ3:9,10)

キリスト教会は2千年の間、キリストが再び来られることを信じて歩んでいます。

少なくとも、2千年前よりも今は、その日に近い時に生きています。

まだ、その日が来ていない理由は、神がだれも滅びることを望まないからです。

だから、福音を伝え、人々が救われることは、神のみこころです。

テトス 1:1-16

「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。」(1:9)

今年のリーダーシップカンファレンスの中でアルファのニッキー先生が混合主義(シンクレティズム)の危険性に言及していました。

こちらからメッセージを聞けます。英語です。)

私たちが伝える福音は変わらない聖書のメッセージです。

イエス・キリストのメッセージです。

その時代に応じて包装紙は変えても、中身は変えてはいけません。

私たちは聖書の御言葉をしっかりと守っていなければなりません。

教会は聖書の健全な教えに反対する教えには断固とした態度をとる必要があります。