使徒 16:19-40

「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。」(16:25)

パウロたちはルデヤが導かれた川岸の「祈り場」に行こうとしていました。

しかし、実際に行った「祈り場」は牢獄でした。

ライト師はこう言います。

イエスに従う者は、世界が苦しんでいる場所で祈りの民となるように召されています。

「世界が苦しんでいる場所」、まさに真夜中の牢獄の中で祈りつつ神を賛美する歌を歌う、これがキリスト者が召されていることだと言うのです。

聖書が私たちに教えている真理の一つは「祈り場」に奇跡が起こるということです。

真夜中の「祈り場」で地震が起こり、看守とその家族が信仰を持ちました。

神は「祈り場」を用いて御業を行われます。

力は神のものですが、祈りの特権がキリストを信じる者たちに与えられています。

キリスト者は天の現実をこの地に祈りによって解き放つエージェントです。

休符

今週から8月に入ります。

2023年も後半に入り、教会もわたしもトップギアで年末まで駆け抜けるようなイメージです。

9月は岩渕まことさんを招いての伝道コンサート、

対面でのイーストフェロシップデイ、

バングラデシュ宣教、

リラのCD発売。

10月はリラ30周年記念コンサートが複数回、

オープンチャ―チ準備。

11月はオープンチャ―チ、

静岡コンサートツアー、

12月はクリスマスマーケット、

キャンドルサービス等々。

ただ行事をこなすということではなく、一つ一つ主の御心を求めながら丁寧に行なっていくことができるよう祈ります。

皆さまの日々はいかがでしょうか。

忙しさの中に埋没し、神様の御心を求めないまま前に進みそうになる時、楽譜の休符のようにひと呼吸置いて静まることが大切だと思います。

酸素や栄養がないまま走り続けると必ず行き詰まってしまいますから。

地上での限られた時間を今週も有効に用いるとができますように。

(小山晶子牧師人)

使徒 16:11-18

「リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」(16:14)

パウロの宣教方法は、まず、ユダヤ人の会堂に行くことでした。

しかし、ピリピにはユダヤ人の会堂がありませんでした。

それで、パウロたちは、ユダヤ人たちが集まる「祈り場」を探して川岸に行きました。

そこで、そこに集まってきたユダヤ人、そして、「神を敬う人」と呼ばれたユダヤ人ではありませんが、聖書の神を信じる人たちに、話をしました。

興味深いことに、聖書はこう言います。

主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされたのは主なる神だと言うのです。

今日も、主が一人一人の心を開いて、牧師が語る説教に心を留めるようにしてくださいますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 16:1-10

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」(16:10)

ユージーン・ピーターソンはこんなことを言っています。

「この幻がなければ、世界が小さく、利己的になる。」

神の世界はいつも、私たちの世界よりも広いものです。

しかし、神の幻(ビジョン)がなければ、私たちはどうしても自分の小さな世界に収まってしまう傾向があります。

聖書は言います。

「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」(箴言29:18)

私たちは神の幻(ビジョン)を求める必要があります。

ユージーン・ピーターソンはまた、こんなことも言っています。

このビジョンは、神の世界の次元に入るために、私たちの能力を拡大します。

私たちは、広い神の世界の次元に入るためにも、神の幻(ビジョン)が必要です。

私たちは神の幻(ビジョン)に生きる群れでありたいと願います。

使徒 15:30-41

「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。」(15:37)

聖書はパウロを偶像化することはありません。

パウロがいつも正しかったわけではありません。

パウロは再びバルナバと共に宣教旅行に出発する予定でした。

しかし、マルコを連れていくか、行かないかでもめてしまいます。

バルナバは「慰めの子」(4:36)という名の通りの人でした。

パウロを使徒たちのところに連れて行ったのもバルナバでした。

パウロを見つけて、アンティオキアに連れて来たのもバルナバでした。

しかしパウロは、前回の宣教旅行で離脱して、先に帰ってしまったマルコを連れていくことに反対でした。

バルナバはマルコにもう一度チャンスを与えたかったのだと思います。

しかし、パウロにはそれができませんでした。

後にパウロはこのように記しています。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」(2テモテ4:11)

バルナバの愛の行動がマルコを回復させたのです。

使徒 15:12-29

「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。」(15:16)

当時の教会の指導者だったヤコブは、エルサレム会議をまとめて、アモス書の御言葉を引用します。

「その後」という表現は終末を現す表現です。

聖書を読む上で、「終末」を理解する上で「すでに」と「いまだ」ということを前提に考える必要があります。

イエス・キリストの十字架の死と復活により、「すでに」終末の時代は、始まっています。

しかし、完全な終末は、再びキリストが来られる時に完全にもたらされますので、「いまだ」です。

要するに、「ダビデの仮庵」は「すでに」ダビデの子、イエス・キリストによって建て直されました。

しかし、完全な回復はキリストが再び来られる時ですので「いまだ」です。

大事なポイントは、「わたしは・・・建て直す」と言われているように主語は神です。

私たちが建て直すのではなく、神が「すでに」なされました。

そして、なされます。

使徒 15:1-11

「なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」(15:10,11)

15章のエルサレム会議は、歴史上最初の公会議です。

この後、教会では何度も公会議が開かれるようになり、様々な決定がなされていきます。

エルサレム会議はユダヤ人と異邦人を一つにする決定がなされましたが、この後は、教会を分裂させる決定が中心になっていきます。

宗教改革者ルターは、そんな公会議も間違いを犯してきたと指摘したために当時のカトリック教会から破門されました。

ペテロの発言は、そんな公会議に対する注意喚起のようにも見えます。

「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

という謙虚な姿勢は重要です。

使徒 14:19-28

「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。」(14:22)

パウロとバルナバは以前宣教した地域を再び訪れ、弟子たちの心を強めました。

No Cross, No Crown.

「十字架なくして、冠なし。」

という言葉があります。

残念ながら、苦難を避けて通り抜けることは誰にもできないということなのだと思います。

古代教父テルトゥリアヌスの言葉に、

「殉教者の血は教会の種子である」

という有名な言葉があります。

今、日本に教会があるのは、私たちの信仰の先輩たちが苦労してまいてきた種子が実っているからであることを忘れてはいけないと思います。

もっとも、パウロは苦しみを否定的に考えません。

苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」(ロマ5:3,4)

使徒 14:1-18

「それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。」(14:3)

アンティオキアからイコニオンに移動したパウロたちは、

「ユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた。」(1節)

と言います。

まさにリバイバル現象が起こりました。

しかし、

「信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。」(2節)

とあります。

福音が前進する時、内外に迫害があることも覚悟する必要があります。

私たちはパウロとバルナバの姿に学ぶ必要があります。

彼らはそれでもなお「主によって大胆に語った。」と言います。

パウロは後に、弟子のテモテに命じます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(2テモテ4:2)

私たちは大胆に、聖書の御言葉を語り続けていきたいと願います。

使徒 13:42-52

「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。」(13:44)

パウロたちは、ガラテヤ州にあるピシディアのアンティオキアにあるユダヤ人会堂で話しをしました。

その内容は、16節から41節にあるように、旧約聖書の内容です。

そのクライマックスはイエス・キリストの十字架と復活です。

今も世界中で、同じように聖書のメッセージが語られています。

アンティオキアの人たちは、次の週も同じ聖書のメッセージを聞くために集まってきたということは注目に値します。

現代のキリスト者はもっと聖書のメッセージに自信を持つ必要があると思います。

人々が必要としているのは聖書のメッセージだからです。

聖書のメッセージは古くなることはありません。

歴史を超え、文化を超えて語ります。

なぜなら、生ける神のことばだからです。

人々は今も、主のことばを聞くために集まります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!