使徒 7:17-50

「『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。」(7:35)

群衆の判断が必ずしも正しいとは限りません。

ステパノが語っていた聴衆たちは、イエス様を拒んだ人たちでした。

ステパノは、モーセの時代の人たちも同じようにモーセを拒んでしまったことを思い出させようとしました。

ステパノは指摘します。

モーセは生きた御言葉を授かったのに、「私たちの先祖たちは、彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って」(39節)偶像を作り、礼拝したではないかと。

私たちは群衆に合わせるのではなく、聖書の御言葉に立ち返る必要があります。

この世と調子を合わせるのではなく、日々、聖書の御言葉を読み、自分の思いを刷新していくことは大切です。

使徒 7:1-16

「するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、」(7:2)

大祭司は、「そのとおりなのか」と尋ねた。」(1節)

ということに対するステパノの答えは、自己弁護ではなく、創世記と出エジプト記を中心としたイスラエル物語を語り直すことでした。

現在の状況を神のご計画の一部であることを示したのです。

私たちは偉大な神の物語の一部を生きていることを認識する必要があります。

もちろん、この物語はおとぎ話ではありません。

私たちはイエス・キリストが再び戻って来られる前の部分を生きています。

今、私たちが求められているのは、全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えることです。

父の洗礼式

“わたしの家族は全員救われます“

信仰宣言で幾度となく繰り返したこの言葉。

その言葉通り父は、多くの兄弟姉妹に見守られながら洗礼を受けることができました。

決断に至るまでの証、はっきりとした誓約。

言わされているのでも諦めているのでもなく、何の迷いもない清々しいまでの姿勢で洗礼を受ける父の姿は輝いて見えました。

あの日面会に行った施設で、初めて父の手を取って祈った瞬間の主の臨在は、今思い返してみてもこれまで体験したことのないようなもので、何かかはじけたというか壊されたというかそんな感じでした。

父は

なぜ自分が洗礼を受けると言ったのか自分でもわからない。神様が背中を押してくれたとしか言いようがない。

と話していましたがまさに「神様のとき」があの瞬間だったのだと思います。

前任の山崎徹也先生が父の手を握って咽び泣く姿は、まるで放蕩息子の帰りを待ちわびていたお父さんのようで、わたしも泣いてしまいました。

一族の初穂である祖父も、きっと天国で喜んでいると思います。

司式をしてくださった黄金井先生の

「勇さん、お帰りなさい!」

との言葉にまた泣きました。

 (小山晶子牧師人)

使徒 6:8-15

「さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。」(6:8)

初代教会は人数が増えたことによりその運営に問題が起こりました。

ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出たのです。

その解決策として、食卓に仕える評判の良い人たちが七人選び出されました。

彼らは執事と呼ばれましたが、現代でいうところの責任役員ということになるのだと思います。

その一人がステパノでした。

彼は「信仰と聖霊に満ちた人」(5節)、「恵みと力に満ち」ていました。

彼はギリシア語を使うユダヤ人でしたが、今度は信徒ではないギリシア語を使う解放奴隷、特に、パウロと同郷のキリキアから来た人たちから迫害されます。

教会はステパノのような執事たちの存在が土台となって成長してきたことを知る必要があります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 6:1-7

「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(6:4)

教会は早い段階から人間関係の摩擦を抱えました。

それで、使徒たちは、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選ぶことにしました。

信仰と品性に重きを置いた選択でした。

彼らにこの問題を委ねて、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専心しますと言いました。

教会は気をつけないと、「祈りとみことば」の時間よりも、「会議(議論)」をする場になりかねません。

使徒たちの模範は、教会がまず何よりも優先すべきは、祈りと御言葉であることを私たちに教えます。

教会は祈りの場でなければなりません。

聖書の御言葉が語られ、聖書を共に読み、学ぶ場でなければなりません。

問題に対処することばかりに追われるならば、本来あるべき姿を見失ってしまいます。

祈りとみことば」が教会のあるべき姿です。