ヘブル 11:1-7

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(11:6)

「信仰」という時、明らかに二つのことが求められています。

一つは、神がおられることを信じること。

聖書が言う神は天地万物の創造主です。

父、子、聖霊の三位一体なる神です。

そして二つ目は、神を求める者には報いてくださるということです。

LBで

熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださる

と訳しているように、ここでいう「求める」には真摯に追求するという意味があります。

ですから、「信仰」は神に対する飢え渇きも求められています。

日本宣教の課題の一つは、神に対する飢え渇きの欠如ではないでしょうか。

神に対する飢え渇きがなければ、神に喜ばれることはできません。

私たちは人々が神に対して飢え渇きを持つことができるように祈る必要があります。

ヘブル 10:26-39

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(10:39)

ヘブル書が私たちに教えていることは、イエス・キリストを信じているならば、罪の力から解放されているから、信じて、聖霊様の力によって前進しなさいということです。

イエス・キリストを信じているならば、聖霊様の力が与えられていることを信じて、感情に振り回されずに、信仰を選んで生きて行くということです。

もちろん、うまくいかないと感じる時、敗北感を感じる時もあると思います。

落ち込むこともあると思います。

しかし私たちは、聖霊の力によって、信じていのちを保つ者です。

なぜなら、たとえどんなに自分が弱く感じても、聖霊なる神様が私たちの内に与えられていて、私たちを導いてくださるからです。

私たちは信じない者にならないで、信じる者になることが大切です。

ヘブル 10:11-25

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」(10:19)

旧約聖書の時代、神の臨在を象徴する神の箱が置かれた至聖所に、罪ある人は近づくことは許されませんでした。

大祭司だけが、一年に一度だけ、動物の血を持って、民の贖いのために入ることが許されていました。

しかし、イエス・キリストが十字架にかかられた時、その幕は、天から引き裂かれました。

イエス・キリストの十字架の御業によって、「新しい生ける道」(20節)が開かれました。

メッセージ訳ではこのように訳しています。

だから、友よ、私たちは今、ためらうことなく、神のもとへ、『聖所』の中へと入っていくことができる。イエスはその血によって道を開いてくださり、神の前で私たちの祭司として行動してくださる。神の臨在の中への 『幕』は、イエスのからだである。

「イエス様の御名によって」祈ることができることがどれほど、素晴らしいかを覚えたいと思います。

ヘブル 10:1-10

「ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。」(10:5)

このヘブル人への手紙の著者が言おうとしていることは、旧約聖書に書いてある動物のささげ物では、罪を除くことはできないということです。

もし、罪を除くことが出来るならば、くり返しささげられる必要はなかったはずだというわけです。

動物のささげ物は、あくまでも、「後に来るすばらしいものの影」だと言います。

これは、プラトンのイデア界の話をしているわけではありません。

これから来るものの下書きのようなものと言うことです。

これから来るもの、「後に来るすばらしいもの」、それが、イエス・キリストです。

詩篇四〇篇を引用し、「後に来るすばらしいもの」とはイエス・キリストの受肉だと言います。

神の御子が、人となり、この世界に来られたことが強調されています。

私ごとですが

今週、わたしが所属している賛美グループ「リラ」の新しいミニアルバム(6曲入り)が発売されます。

今年は結成30周年の記念の年ということで、いくつかのコンサートや楽譜集の発売も予定しておりこれから年末まではかなり慌ただしくなりそうです。

レコーディングの様子やインタビュー映像などはYoutubeやCGNテレビでも放送されていますので見ていただけたら嬉しいです。

時々礼拝や祈祷会でも賛美している「破れ口に立つ」という曲も収録されていますし、何曲かは長男もバイオリンで参加してくれています。

今はあまりCDを聴かない時代になってしまいましたが音はもちろんのことジャケットの絵や歌詞の位置、写真、曲順に至るまで話し合いや想いを重ねながら作り上げていますので出来る限りCDの形でお手に取っていただければ嬉しいです。

曲ごとに作者のコメントも入っています。

それにしても個性豊かな6人のメンバーが一人も欠けることなく30年も共に活動してくることができたことは神様の奇跡以外の何ものでもありません。

主の御業を賛美し、心からの感謝をお捧げします!

 (小山晶子牧師人)

ヘブル 9:23-28

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(9:27,28)

人間は死亡率百%です。

すべての人は一度死ぬことが定まっています。

そして、死後、すべての人は神の前に立つ時が来ます。

イエス様はすべての人の罪を負うために一度十字架にかかり死に、葬られ、よみがえられました。

そして、この世界の終わりに再び来られます。

この箇所のポイントは「一度」。

イエス・キリストの十字架の死と復活は完全でしたので、もう、動物のささげ物のように繰り返される必要はないということです。

繰り返す必要もなければ、付け加える必要もありません。

誰でも、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、心に迎えるならば、罪の力から救われます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 9:11-22

「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(9:12)

使徒パウロは、

「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)

と言いましたが、イエス様は文字通り

ご自分の血によって・・・永遠の贖いを成し遂げられました。

イエス様が十字架で流された血潮は、すべての人を贖うのに十分な値でした。

ですから、「ただ一度」で十分でした。

今、救われるために、イエス様を信じるだけでは十分でないという人は、このイエス様の十字架を冒涜していることと同じことです。

イエス様が流された尊い血潮は、信じる者をきよめる力があります。

神は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリストの血と私たちの信仰とを用いられました。」(ローマ3:25LB)

ヘブル 9:1-10

「聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。」(9:8)

イエス様が十字架にかかり、死なれた時、

神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マルコ15:38)

と記録されています。

神殿の幕は、契約の箱が置いてあった第二の幕屋と、祭司たちが務めを果たしていた第一の幕屋(6節)との間を分けていた幕でした。

要するに、イエス様の十字架が「聖所への道」を明らかにしたということです。

大胆に恵みの御座に近づく道が明らかにされたということです。

イエス・キリストの十字架の御業なしに、至聖所への道は開かれることはなかったということです。

私たちは大胆に主のみ前に出て祈ることができるということの素晴らしい特権を当たり前のことのように思うべきではありません。

この素晴らしい特権を感謝して、大胆に恵みの御座に出て祈ろうではないでしょうか。

ヘブル 8:1-13

「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。」(8:1)

ささげ物といけにえを捧げるために大祭司が任命される理由は二つありました。

一つ目は、神の臨在の中に入るためです。

二つ目は、血を流すことが、そのことを可能としたということです。

しかし、問題は、任命された祭司は人間であり、限界がありました。

人間は眠る必要がありますので、ずっと続けられるわけではありません。

また、動物の血も完全ではありませんでした。

ヘブル人への手紙が教えていることは、私たちの大祭司、イエス・キリストには、このような限界はないということです。

イエス様は完全な人間であると同時に、完全な神です。

「要するに、私たちにはまさにそのような大祭司がいるのです。神と並んで権威を持ち、神によって建てられた唯一の真の聖所で礼拝を執り行っているのです。」(1,2節MSG)

ヘブル 7:23-28

「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。」(7:24)

「祭司」はラテン語でpontifexと言います。

意味は「橋をつくる人」(pons-facio)。

イエス・キリストは私たちの大祭司として、神と人との橋をつくられた方です。

神と人との間には誰も越えることが出来ない罪という溝があります。

どんなに善行を積んでも、修行を積んでも越えることはできません。

渡る唯一の方法は、十字架によって橋をかけられたイエス・キリストを信じることです。

イエス・キリストは死からよみがえられ、今も生きておられますから、信じる者をすべて救われます。

だから聖書は約束します。

「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(25節)