箴言 9:1-18

「嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。」(9:8)

LBで七節と八節をこう訳しています。

人をさげすむような者に忠告を与えても、辛辣なことばで言い返されるだけです。その人のことを思ってしてあげても、恨まれるだけなので、もうかかわらないほうがよいのです。知恵のある人は違います。忠告すると、前以上にあなたを愛してくれます。

親切心で注意したことが、反感を買ってしまったという経験を誰もがもっていると思います。

聖書が教える霊的な原則は、聞く耳のある人には教えることに意味がありますが、そうでない人にはしないほうがいいということです。

それはまた、「教えやすい心」(Teachable heart)を持つことの大切さを聖書は教えています。

謙遜に学ぶ心がある人こそ、知恵のある人です。

知恵の基本は、主を恐れ、大切にすることです。」(十節LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

箴言 8:22-36

「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」(8:34)

ここでは、日々のデボーション(QT)の重要性が語られています。

日々、見張り、見守るように、聖書のみことばに耳を傾ける人は幸いな人だと聖書は言います。

なぜならば、このようにして人はいのちを見出し、主から恵みをいただくからです。

これはまさに、いのちと死に関わる重要な事柄です。

イエス・キリストを信じると口で告白していても、日々、聖書のみことばを読まなくなると、心とたましいが死んでしまいます。

キリスト者と言いながら、力がないのはそういうことです。

LBでは36節をこのように訳しています。

「しかしわたしを見失う人は、自分をだめにする。わたしの忠告を退ける人は死を愛しているのだ。」

神のみことばを愛し、神のみことばに生きていくことができますように。

箴言 8:1-21

「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。」(8:11)

箴言における「知恵」は人格化され、一人称で語られます。

また、「知恵」は単なる思考の問題ではなく、「生き方」そのものに関わることを示します。

ですから、箴言は一貫して一時の快楽ではなく、「知恵」を求めることを勧めます。

どんな宝よりも「知恵」を求めることを勧めます。

それでは、どこでまことの「知恵」を見いだすことができるのでしょうか?

新約聖書にその究極的な答えを見ることができます。

「ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」(Ⅰコリ1:24)

もし、本物の知恵を求めるならば、私たちはイエス・キリストとの関係からはじめなければなりません。

イエス・キリストとの関係は、どんな宝にもまさり、何も比べることはできません。

箴言 7:1-27

「私の命令を守って生きよ。私の教えを、自分の瞳のように守れ。」(7:2)

私たちは瞳を大切に扱います。

目は私たちが生きていくうえで大事な器官ということ以上にとてもデリケートな部分だからです。

目に虫や小さな砂が入ってしまうだけでも体全体、時には精神的にも影響を与えます。

目に対してこれほどの神経を使っているように、神の御言葉に対して私たちは神経を使って耳を傾けているでしょうか。

御言葉が悪魔に持ち去られないようにとしっかりと守っているでしょうか。

どのようにして私たちは神の教えをまもることができるのでしょうか。

それは、『それほど大切なものである』ということを日々意識するということです。

御言葉をぞんざいに扱うのではなく大切にしましょう。

「それが生きる秘訣です。私のことばを宝物のように大事にしなさい。」(LB)

箴言 6:20-35

「それをいつも心に結び、首に結び付けよ。」(6:21)

箴言には姦淫に対する忠告が多く出てきます。

なぜなら結婚外の性関係は全て罪であり、結婚生活を破綻に導くだけでなく、人生をおかしくしてしまうからです。

聖書はその問題は、「心」からはじまると言います。

「夢想」(lustfully fantasaize)(25節MSG)することからはじまると。

ですから、イエス様も忠告されました。

わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)

姦淫は何もないところからは始まりません。

不誠実さは心から始まります。

ですから、聖書は言います。

健全なアドバイスは灯台。良い教えは光。道徳訓練は人生の小道。」(23節MSG)

これらの知恵の言葉を私たちの心に結びつけることは大事なことです。

日々、誰のことばに耳を傾けるかが問われています。

箴言 6:1-19

「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある。」(6:16)

この箇所には、神の憎む行いが具体的に記されています。

それらは、以下のものです。

高慢な態度、うそをつくこと、人殺し、悪だくみ、悪事に熱中すること、偽証、仲たがいの種をまくことです。」(LB)

意識してこれらのことを行っているならば明らかに問題です。

しかし、たとえ無意識であったとしても主が憎むものであることに変わりはありません。

これらのことを私たちは受け入れてはいけません。

自分は正しいと思っている時こそ、自分の不完全さや足りなさを忘れ、高慢な態度になっているかもしれません。

これらの罪は大きなダメージを与えます。

たとえば、「仲たがいの種をまくこと」によってどれだけ多くのコミュニティが傷ついてきたことでしょうか。

私たちは祈りをもって主に立ち返り、赦しを求める必要があります。

箴言 5:1-23

「人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。」(5:21)

誘惑は、サタンが人間を滅びへといざなう常とう手段です。

まるで良いものであるかのように私たちを誘惑しながら、最後は永遠の滅びへと落とします。

どのようにして、わたしたちはこのサタンの罠を見分けることができるのでしょうか。

自分は大丈夫だと軽く見ないで、誘惑に近づかないことが第一です(八節)。

なぜなら、結果的に必ず後悔することになるからです(十一節)。

失うものを考えるならば、その価値はないことは明らかです。

今まで築き上げてきた尊厳も労苦の実も、皆、失うことになってしまいます。

聖書は明言しています。

「神は何もかもご存じです。あなたのなすことすべてに目と心を配っているのですから。」(LB)

ですから、私たちは日々、神を見上げ、聖書のみことばに耳を傾ける必要があります。

ほんやくこんにゃく

バングラデシュから無事帰国した宣教チーム。

たくさんの受けた恵みを家でも分かち合ってくれています。

心配していたデング熱からも守られ、日焼けして帰ってきました。

皆さんのお祈りを心から感謝します。

今回はHOPの子どもたちに一人一枚づつ紙を配って、自分の好きな聖書の箇所やイラストなど日本の支援者へのメッセージを書いてもらいました。

持ち帰られた束になった紙を前にして、自分自身が全くベンガル語が読めないという現実に直面し途方に暮れていました。

せっかく書いてもらったものが読めないなんて悲しずぎる、、、。

これをもらった日本の支援者も困るよね、、、と言っていたらなんと!!

すごいですね。

今はスマホのカメラに文字をかざすだけで日本語に翻訳してくれるアプリがあるのです。

それも手書きのものでも大丈夫という優れもの。

読める!読めるぞ!!(ムスカ風)

と大興奮のわたしでした。

ドラえもんの秘密道具翻訳こんにゃくはこんにゃくを食べないといけなかったですがそれより遥かに簡単なこの機能。

子どもたちの想いを皆さんにもぜひ読んでいただきたいと思います。

(小山晶子牧師婦人)

箴言 4:10-27

「あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。」(4:25)

私たちの目が何を見ているかは、とても重要です。

多くの場合、私たちが見ているものが私たちの心に影響を与えるからです。

ですから私たちは何を見るか気をつける必要があります。

だから聖書は言います。

「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(23節)

聖書はまた、「まっすぐ前を向くようにせよ」と言います。

私たちは前向き、肯定的、信仰的に生きる姿勢が大事です。

後ろ向きになって、否定的になってしまうならば、前を見ていないならば前に進んでいくことはできません。

使徒パウロもこのように言っています。

「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、・・・目標を目指して走っているのです。」(ピリピ3:13,14)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

箴言 4:1-9

「知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口のことばからそれてはならない。」(4:5)

「知恵」とは、人生において敬虔な選択をするための能力のことです。

「悟り」は、ここで類義語として並列されていますが、分別を意味します。

聖書的に「正しい選択」というのは、「敬虔な選択」「信仰的な選択」を指します。

ですから人生において神を第一に選択することが、「正しい選択」です。

もちろん、どこから「知恵」や「悟り」を得るかが重要です。

「私の口のことばから」とありますが、要するに神の御言葉、聖書からということです。

箴言は実践的な生き方の指針が多く記されています。

それは、神が私たちの日々の生活にも関心を持っておられるからです。

聖書は信仰と生活の唯一の規範です。

神は聖書から、「知恵を得よ。悟りを得よ。」とおっしゃられます。

聖書の御言葉で心を満たすことができますように。