箴言 3:27-35

「あなたに悪い仕打ちをしていないのなら、理由もなく人と争うな。」(3:30)

聖書が教える知恵の大原則は、争わないということです。使徒パウロもこのように言っています。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)

争いは神のみこころではありません。

それは欲望の問題だと聖書は指摘します。

「あなたがたの争いは、いったい何が原因ですか。あなたがたの心にうず巻く悪い欲望から出たものではありませんか。 あなたがたときたら、人を殺してでも欲しいものを手に入れたがるのです。うらやんでも手に入れることができないと、力ずくで奪おうとしてけんかをします。神に願い求めることをしないからです。 いくら願い求めても手に入らないのは、その目的や動機がまちがっているからです。自分を楽しませることのみ求めているからです。」(ヤコブ4:1-3LB)

箴言 3:11-26

「わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」(3:11,12)

神は私たちをその深い愛ゆえに叱ると言います。

どのような形で叱られるのかは人それぞれであると思いますが、あるときには自分の考えていた『完璧な』プランを粉々に打ち壊すことを通して、それが神の御心でないことを、わたしたちにとって最善な道でないことを教えてくださることがあります。

罪を犯してしまったのに、なかなか悔い改めに踏み出せないでいるような時、神の深い悲しみの叱責が私たちに悔い改めへと導くこともあります。

いずれにせよ、神は私たちを愛しているがゆえに、放っておかれることはありません。

箴言 3:1-10

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(3:5,6)

主があなたの進む道をまっすぐにされる

という意味は、

私たちの人生の歩みを正しい方向に導かれる

という意味があります。

神は私たちがこれから直面するすべての状況をご存知です。

神はすべてをご存知な上で、私たちの人生を正しい方向に導きたいと願われます。

神が私たちの人生を「正しい方向に導かれる」という確信は、先の見えないこの世界において、平安を与えます。

楽な道とは限りません。

世界の状況は混乱していて、多くの人々は方向感覚を失っています。

真暗闇の大海原にコンパスもなく放り出されたような状況です。

多くの人が、「こっちだ、あっちだ」と言いますが、結局は、どこにも向かっていなかったことに気づかされたりします。

私たちの人生を「正しい方向に導かれる」のは主なる神です。

箴言 2:1-22

「正直な人たちは地に住まいを得、全き人たちは地に生き残る。しかし、悪しき者たちは地から断たれ、裏切り者たちは地から引き抜かれる。」(2:21,22)

箴言は、神が私たちに与えてくださったこの世における一般的な法則です。

この世の一般的な法則はこれです。

「人生を思う存分楽しめるのは正しい人だけです。悪人はせっかく幸運を手にしても失い、やがて破滅に至るのです。」(LB)

神との関係が正しくない時、私たちはそれ以外のすべてが物質的にも精神的にもたとえ満たされていても、心のどこかに隙間を感じます。

イスラエル人はあいさつに「シャローム」という言葉を使います。

これは、

神とあなたのシャローム(関係)は今日いかがですか?

という意味があります。

あなたと神との「シャローム」はいかがですか。

もし、告白していない罪があるならば、いま神に告白し、赦していただきもう一度神との正しい関係に入れていただきましょう。

箴言 1:20-33

「知恵は大通りで叫び、広場でその声をあげ、」(1:20)

知恵は大通りで叫び」とあるように、求める者は、誰もが見出すことができるものだと聖書は言います。

ユージーン・ピーターソンはこんなことを言っています。

箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。

聖書の神は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。

私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられます。

私たちの髪の毛の数さえ知っているお方ですから。

ですから、家族生活の問題も、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱っています。聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。つまり、聖書は「大通りで」叫ぶ声とあるように、生活の現場に関わるものです。「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。」(7節LB)

わたしはというと

結婚以来初めてだと思います。

全くの一人ぼっち。

これまで何度も留守番の経験はしてきましたが完全に家に一人ということはありませんでした。

もっと淋しいのかと思いましたがいろいろとやらなければならないことがあり、しかも先週は実家の両親の顔を見に行ったりもしたため、あっという間に日曜日を迎えたという感じです。

現地からの報告では大塚牧師が体調を崩しているとのこと。

どうぞ回復のためお祈りください。

 さて、わたしはというと今晩から長男がオーケストラのオーディションのため戻ってくるとのこと。

「一人じゃ寂しいだろうから水曜までいてあげるよ」だそうです、、、。

木曜日には宣教チームが帰国予定なので、何というか、結局まるっきり一人という日がほとんどないままとなりそうな予感。

日々平安の中で過ごせるのは皆さまのお祈りに支えられているからだと思います。

あと4日、宣教チームが神様に導かれていること、やるべきことを全う出来るよう引き続きお祈りください。

今日は小山牧師の親しい友人である菅原岳先生がメッセージを取り次いでくださいます。

(小山晶子牧師婦人) 

箴言 1:1-19

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(1:7)

主なる神に対して健全な恐れの心を持つことは大切なことです。

知識はそこから始まると聖書は言います。

知識を神とする人々もいます。

知識を得ることが人生の目的という人もいます。

しかし、どんなに知識をもったとしても、まことの神に対する尊敬心がなければ、傲慢な人間を作ります。

聖書は言います。

「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」(Ⅰコリント8:1) 

まことの神に対する敬虔な恐れ、尊敬心、それが、人をへりくだらせ、謙虚さを与えます。

しっかりとこの土台に立った上での知識は、建設的なものとなります。

まことの神に対する敬虔な恐れがあるのならば、いつも神のみことばに耳を傾けます。

そして、神のみことばの指摘に喜んで自分自身を修正しようとします。

聖書を蔑む者、それが聖書が言う愚か者です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!