ゼパニヤ 3:9-20

「わたしはあなたのただ中に、へりくだった、貧しい民を残す。彼らは主の名に身を避ける。」(3:12)

ゼパニヤの「主の日」は、へりくだった残りの者こそが、新しい時代の担い手となると告げています。

主の審判を乗り越えた「残りの者」は、もはや自分により頼むおごり高ぶる者ではないからです。

西満師はこのように言います。

「残れる者とは、『へりくだった』者であり、『寄るべのない』(弱い、貧しい、低いの意)民で、彼らはただ主ヤハウェにのみ身を避けるのです。逆に言うならば、『高ぶり』こそ罪の根源であり、彼らは富や知恵などの自己の力に頼り、外国との同盟に頼ったりするのです。」

「主の日」は自分ではなく神に信頼する者にとっては神の愛に感動する日になります。

「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(17節)

ゼパニヤ 3:1-8

「わたしは言った。『あなたはただ、わたしを恐れ、戒めを受け入れよ。そうすれば、わたしがこの都をどれほど罰しても、その住まいは断ち切られない。確かに彼らは、繰り返してあらゆる悪事を行ったが。』」(3:7)

イスラエルの問題、それは傲慢でした。預言者は言います。

「呼びかけを聞こうともせず、戒めを受け入れようともせず、主に拠り頼まず、神に近づこうともしない。」(2節)

「おごり高ぶって、神の声にさえ耳を貸そうとしない。」(LB)

ことがあらゆる罪の根源です。

自分が神のようになって、自分が絶対になると、人は誰の言葉も聞こうとしなくなります。

恐ろしいことは、時代を超えて、文化を超えて、今も神の言葉として語り続ける聖書の言葉よりも、自分の方が賢いと考えてしまう愚かさです。

聖書は警告します。

「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(1コリント8:2)

ゼパニヤ 2:4-15

「これは彼らの高慢のためだ。彼らが万軍の主の民をそしり、これに向かって高ぶったからだ。」(2:10)

「主の日」の神の審判はイスラエルだけでなく、その周辺国にも預言されます。

その理由を十節でこのように記します。

「これは彼らの高慢のためだ」。

聖書は言います。

「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。」(1ペテロ5:5)

ですから、「主の日」は謙遜にさせられる日とも言えます。

自分に絶望し、神に白旗を上げる日です。

私たちは、対岸の火事のように考えるべきではありません。

なぜなら、私たちも皆、へりくだって、神に白旗を上げ、神が必要であることを認める必要があるからです。

私たちは、自分は関係ないと考えるべきではありません。

「主の日」は、「御怒りを受けるべき」日でした。

しかし、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことによって、「その日」は「救いの日」となりました。

ゼパニヤ 1:14-2:3

「すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。」(2:3)

ゼパニヤ書の中心メッセージは「主の日」です。

それは「裁きの日」です。

それは、「主の大いなる日」(十四節)、

「その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。」(十五、十六節)、

「主の激しい怒りの日」(十八節)、

「主の怒りの日」(二・二)、

「主の怒りの日」(二・三)。

このように、神がその民にくだす審判の時のことです。

ゼパニヤ書で神の審判は、軍事攻撃によってもたらされるエルサレムの滅亡として描かれています。

このような状況で預言者は民に三つのことを求めるように勧めます。

それは

①主ご自身、

②義、

③柔和さ。

主を求め、正しいことを行う謙遜な者を神は憐れまれます。

感謝礼拝2023

きょうは十一月最後の日曜日。

今年もみなさんと一緒に主の恵みを覚える感謝礼拝をお捧げできることを嬉しく思います。

どんな一年でしたか?

わたしはとにかく忙しかった!

という印象が強い一年でした。

コロナの影響から少しずつ解放されて行えることが増え、教会の動きもコロナ前に近くなったことで日常を取り戻しつつあると同時に、リラが結成30周年の記念の年ということでレコーディングやコンサート活動、それに伴う話し合いや準備など 目まぐるしい日々でした。

まさに一日一生、その日その日を精一杯生きたという感じです。

祈り支えていただき本当にありがとうございました。

その中でも特に感謝だったのは、父が6月に洗礼を受けたことです。

クリスチャンだった祖父の祈りが結実した瞬間に立ち会うことができたことは、神様からいただいた特別ボーナスだったと思います。

私たちの想いや計画をはるかに超えた主の御業を、リアルタイムで見せていただきました。

数えきれない恵の中で生かされたことを感謝しつつ、このサンクスギビング・デイに主に心からの礼拝をお捧げしたいと思います。

(小山晶子牧師婦人)

ゼパニヤ書 1:1-13

「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼパニヤにあった主のことば。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。」(1:1)

ゼパニヤはヨシヤ王の時代の預言者でした。

ヒゼキヤ王の家系に連なる王族出身です。

ヨシヤ王は2歴代誌三四章に出てきます。

偶像礼拝に陥っていた南ユダ王国が、ヤハウェ信仰に立ち帰るように宗教改革を行った王です。

この書に出てくるバアル神礼拝をはじめとする偶像礼拝に対する裁きの言葉は、偶像礼拝を一掃するヨシヤ王の宗教改革の前になされた預言だと考えられます。

つまり、このゼパニヤの預言の言葉を受けてヨシヤ王の宗教改革があったとも考えることができます。

ヨシヤ王の宗教改革は、国家規模で「主に立ち返る」ということでした。

神の御言葉があり、御言葉に応答することによってリバイバルが起こります。

今日は主の日。感謝礼拝の日。共に主に感謝と礼拝を捧げましょう!

箴言 22:17-29

「あなたが主に拠り頼むことができるように、私は今日、特にあなたに教える。」(22:19)

箴言は私たちがこの地上で生きていくための知恵が記されています。

神は私たちのこの地上での日々の生活も気にかけておられますから、私たちのために、勧告と知識を与えてくださいます。

「土台は神を信頼すること」(19節MSG)

です。

30の知恵があります。

今日の箇所では最初の5つが記されています。

1.貧しい者、必要がある人を踏みにじらない。(22,23節)

2.怒りやすい人や、激しやすい人の影響を受けて罠に落ちないように気を付ける。(24,25節)

3.他の人の負債のための保証人にならない。(26,27節)

4.他者の権利を犯さない。「どろぼうと同じこと」(28節LB)だから。

5.謙遜に、目立たない仕事を誠実に行い続ける。神が良い時に高くしてくださるから。「まじめに良い仕事をする人は、必ず成功します。」(29節LB)

箴言 22:1-16

「怠け者は言う。「獅子が通りにいる。私は広場で殺される」と。」(22:13)

これは、言いわけばかりしていてはいけないという箴言です。

LBではこのように訳しています。

「怠け者は、「仕事になんかとても行けない。外にでたらライオンに食い殺されるかもしれない」と言いわけをします。」

言いわけばかり考えていると、何も出来なくなってしまいます。

聖書の時代、確かにライオンがたくさんいました。

古代の王は、自分の権力の誇示のためにライオン狩りをしました。

乱獲したために、今では見なくなりました。

ですから、ライオンに出会う確率がなかったわけではありません。

しかし、そんなことを言っていたら何もすることはできなくなってしまいます。

私たちもできない言いわけを考える人生ではなく、主に信頼し、挑戦する人生を歩みたいと思います。

箴言 21:15-31

「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。」(21:17)

聖書は快楽主義に警鐘を鳴らしています。

快楽を追求する人は人を羨むことしか知りません。

メッセージ訳では26節をこう訳しています。

「罪人はいつも彼らが持っていないものを欲している。神に忠実な者は、いつも彼らが持っているものを与えている。」

神を恐れる人は喜んで人に与えます。

そして、そのように生きることによって人生は充実します。

「正しく思いやりのある者になろうとする人は、充実した生活を送り、人からもたたえられます。」(21節LB)

ですから、イエス様は言われました。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

私たちは神の御国、すなわち神のみこころがこの地になされることを求めて生きることが求められています。

箴言 21:1-14

「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべて慌てる者は損失を招くだけだ。」(21:5)

「急いては事を仕損じる」ということわざがありますが、急ぐこと、慌てることの問題は、神よりも先にいこうとしてしまうことです。

神を待てずに先を急ごうとすることは、神が私たちの中で、私たちを通して行おうとしていることを無視することになります。

その結果、私たちは先に行くどころか、遠回りすることとなります。

また、LBでは今日の箇所をこのように訳しています。

「地道に努力すれば利益がもたらされ、一儲けしようと急ぐと貧困がもたらされます。」

神のタイムテーブルと私たちのタイムテーブルは違います。

神の時を信頼することが大切です。

なぜなら、

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者3:11)

からです。