そして立冬

急に寒くなりました。亀のジェニーの食欲も一気になくなり2週間前までTシャツを着ていたわたしも流石に長袖を着用しはじめました。

11月ももう半ば、立冬にふさわしい気温へと瞬間移動した感じがします。

すでに街はクリスマスの装いとなり、ツリーをそこここで見かけるようになりました。

きょうは第二礼拝後野島公園でバーベキューを予定していますが、風邪をひかないよう暖かい格好でお出かけくださいね。

考えると悲しいのであまり考えないようにしていましたが、とうとう健爾兄の旅立ち前最後の礼拝となりました。

同い年だったこともあり、長男の赤ちゃん時代の写真からずっと健ちゃんは一緒に写っているものが多くて、成長を見守ってきた者としては独り立ちしていく喜びと寂しさが入り混じっています。

神 共にいまして
行く道をまもり
天の御糧もて
力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
神のまもり
汝が身を離れざれ

(小山晶子牧師婦人)

箴言 15:16-33

「正しい人の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪しき者の口は悪を吐き出す。」(15:28)

言葉は何でも思ったことを吐き出せばよいというものでありません。

聖書は言葉の大切さを指摘します。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

もちろん、そのためには、「よく考えてから話」(28節LB)すことを身に着ける必要があります。

メッセージ訳が、

祈りをこめた答えは、神に忠実な人々からくる。」

と訳しているように、私たちは祈りの中で、「よく考えてから」話す習慣を身につけることは大切です。

そのような神に忠実であろうとする人の祈りを主は聞かれます(29節)。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

箴言 15:1-15

「穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。」(15:4)

「穏やかな舌」は直訳すると「癒しの舌」です。

「癒しをもたらす舌はいのちの木」と訳せます。

私たちのことばは人々の人生を変えます。

ですから、メッセージ訳はこのように訳しています。

「やさしいことばは、いやしと助け。痛烈なことばは、痛みと傷。」

ネットにおける誹謗中傷が問題となっていますが、私たちはいのちを与える言葉を使うことを気にかけるように聖書は言います。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)

また、イエス・キリストは、このように警告します。

「わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。」(マタイ12:36)

箴言 14:17-35

「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」(14:27)

この世界が必要としていることは健全な神への恐れです。

神への恐れの欠如がこの世を不安定にし、混乱をもたらします。

自分を創られた神が生きておられ、やがて、神の御前に立つ時が来ることを認識するならば、人は自分の行動に責任を持つようになります。

LBはこう訳しています。

「主を恐れることはいのちの泉です。その水を飲めば生きる力がわいてきます。」

神に対する健全な恐れが、私たちに力を与えます。

神を恐れることは、いわゆる恐怖を抱くこととは違います。

なぜなら、聖書の神は愛なる神であり、私たちを愛し、私たちの罪のために御子イエス・キリストを与えてくださったお方だからです。

神を愛することと、神を健全に恐れることは矛盾しません。

箴言 14:1-16

「牛がいなければ飼葉桶はきれいだが、豊かな収穫は牛の力による。」(14:4)

飼葉桶は、牛が使用しない限り汚れることはありません。

しかし、それでは飼葉桶の意味がありません。

たとえ飼葉桶がきれいでなくても、牛がそこに存在して使用していることに意味があります。

同じように、教会も人がいなければ問題は起きないかもしれませんが、人がいなければ教会の意味がありません。

たとえ理想的にきちんとできなくても、様々な人が教会に存在していることに意味があります。

様々な人がいることによって、より様々な人に福音を宣べ伝えることができるからです。

このようにして神の国は広げられていくからです。

また、同じように、私たちが生きている限り、問題がなくなることはありません。

しかし、それでも生きていくことに意味があります。

問題が問題ではありません。

すべてのマイナスは必ずプラスになります。

箴言 13:13-25

「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」(13:20)

どこにいるか、誰の話を聞くかは、私たちの人生に影響を与えます。

だから聖書は言います。

「知恵ある人のそばにいれば知恵ある人になり、悪人のそばにいれば悪に染まります。」(LB)

ですから、自分を過信せずに、信仰の共同体である教会に属することを聖書は勧めています。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(ヘブル10:25)

教会も人の集まりであり、完全ではありません。

しかし、キリストのからだです。

聖書の御言葉を中心とした集まりである限り、そこには知恵があります。

なぜなら、神の御言葉が私たちに知恵を与えてくださるからです。

そして、聖霊なる神様が教師となって教えてくださいます。

箴言 13:1-12

「高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。」(13:10)

多くの人の問題は「高ぶり」です。

LBではこのように訳しています。

「自分に自信がありすぎる人は、なかなか主張を曲げません。素直に忠告を聞く人は賢くなります。」

神よりも自分が賢くなってしまうと、謙遜に他者からの忠告に耳を傾けることができなくなってしまいます。

その結果、どんな忠告も、ただ争いが生じるだけになってしまいます。

何よりも私たちが耳を傾けなければならないのは、聖書のみことばです。

聖書は言います。

「みことばをおろそかにすると苦しい目に会い、みことばに従えば成功します。」(13節LB)

聖書の知恵はこれです。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:2)

私たちは謙遜になって、互いのために祈り合い、励まし合う必要があります。

箴言 12:17-28

「悪を企む者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。」(12:20)

「平和を図る人」は「シャローム・カウンセラー」と訳せます。

イエス様は

「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5:9)

と言われましたが、平和はつくるものです。

私たち一人一人が「シャローム・カウンセラー」となって、この地に平和をつくる者となっていく必要があります。

具体的に、「シャローム・カウンセラー」は、その言葉に注意します。

「批評好きは人を傷つけますが、知恵ある人のことばは慰め、いやします。」(18節LB)

「どんなに沈んでいる人も、励ましのひと言で心が軽くなります。」(25節LB)

今、多くの人が不安と心配で、沈んでいると思います。

シャローム・カウンセラー」として、今日、誰かに「励ましのひと言」、「親切なことば」を発することができますように。

一昨日は

お疲れ様でした。

4年ぶりのオープンチャーチをまずは無事開催できたことが嬉しかったです。

ご協力くださり本当にありがとうございました!

初めましての方や香港カフェにきてくださった方、みなさんのご友人の方々。

個人的にはお隣さんをはじめご近所の方々が来てくださったことは教会が地域に受け入れられてきている証拠かなと思い感謝でした。

また、「きょうの今日までここが教会だと知らなかったよ!」と驚いた様子で立ち寄ってくださった方もいらっしゃいました。

また来てくださるといいなあ。

2023年もあと2ヶ月を切りました。

神様がこの一年導いてくださっていることをしっかりと全うすることができるよう、聖霊さまの助けを求めつつ歩んでいきたいと願います。

それぞれの持ち場で今週も主の愛を流していくことができますように。

来週はこれもまた何年ぶりでしょうか、野島公園でバーベキューを行う予定です。

健爾兄とはこれでしばしのお別れとなりますので、笑顔で見送ることができればと思います。
(小山晶子牧師婦人)

箴言 12:1-16

「人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。」(12:3)

イエス様は言われました。

「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23)

この世を見ると、悪いことをして成功しているように見える人がいます。

しかし、悪をもって身を堅く立てることはできません。

悪いことをしていて、人生が安定することはありません。

たとえ、しばらくのあいだ大丈夫に見えても、正義は必ず追いついてきます。

しかし、この世で生きていく中で正しく生きることがばからしく見えるときがあります。ですから聖書は言います。

「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!