マルコ 6:1-13

「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」(6:7)

古代ギリシアの哲学の一派に、キュニコス派、犬のような生活をしたので、「犬儒学派」と呼ばれるグループがありました。

彼らは金持ちや貴族たちに対して吠えることでも有名でした。

自分たちの財産所有を放棄し、簡素な生き方を追求する「放浪の哲学者」でした。

彼らとイエス様の弟子たち違いは歴然としていました。

彼らは汚れた霊を追い出す権威はありませんでした。

彼らは、この世界はもう手遅れで、何か新しいことが起こるなどと考えもしませんでした。

しかし、イエス様の弟子たちは神の国を宣言する人たちであり、今から新しいことが起こるから、それに備えるように訴えました。

要するに十二弟子の派遣のポイントは禁欲生活ではなく、イエス様の十字架の死と復活を通してもたらされる「新しい始まり」の緊急性です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 5:21-43

「彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。」(5:27)

「さわることによって癒される」ことは奇妙な現象です。

しかし、ここに大事なメッセージがあります。

群衆のような問題が押し寄せてきていても、イエス様の後ろにいくスペースはあり、手を伸ばしてさわることができるというメッセージです。

「恐れと信仰」が混ぜ合わさった中でも、手を伸ばし、イエス様に触れる時、神の力が解き放たれます。

そもそもイエス様の力が彼女を救ったのでしょうか。

それとも、彼女の信仰が彼女を救ったのでしょうか。

もちろん、イエス様の力が彼女を救いました。

しかし、イエス様はこんなことを言います。

「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(34節)

つまり、イエス様の力は、私たちの信仰をコネクターとして解き放たれるということです。

どんなに弱くても、私たちの信仰が神の力と私たちをつなぐものとなります。

マルコ 5:1-20

「イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。」(5:8)

「汚れた霊」「悪霊」とは堕落した天使たちのことです。

ナルニア国物語の著者、CSルイスはこう言います。

「悪霊に関して私たちが陥りやすい、二つの、等しく、かつ相反する間違いがある。1つは、悪霊の存在を信じないこと。もう一つは、悪霊の存在を信じて、過度にそれを意識し、不健全な興味を抱くことである。悪霊らは、この両方の間違いに喜び、物質主義者や魔術をする者を同じ喜びで迎える。」

今日の箇所が明確に教えていることは、悪霊であっても、神の御子イエス・キリストの命令には逆らえないということです。

神と悪魔が対立しているわけではありません。

神は絶対的なお方です。

悪霊であっても神に逆らうことはできません。

ですから、悪霊は人を利用します。

不満や憎しみは悪魔の常套手段です。

イエス様の十字架の御業、愛と赦しが人を解放します。

マルコ 4:30-41

「さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。」(4:35)

弟子たちは、イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一緒に舟に乗って出かけました。

ところが、そこで激しい突風が起こります。

イエス様に従って一歩踏み出したとしても、神のみこころの真ん中に生きていても、突風が吹いてくることはあります。

イエス様が乗っていても嵐が起こりました。突風が吹きました。

しかし、イエス様がされたように、どんな嵐の中でも、父なる神の臨在の中で、安心して枕をすることができます。

なぜならば、神はどんな嵐をも静めることができる、すべてを治めておられるお方だからです。

イエス様が「かまわないのですか。」という弟子たちの問いかけに、応じられたという意味は、私たちのことを心にかけておられるということ以外の何ものでもありません。

マルコ 4:21-29

「イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」(4:21)

イエス・キリストは神の国、神の統治の話を、自分を囲む中の人たち、イエス様につき従っていた人たちに話しました。

しかし、この神の国の良き知らせは、この世界に神の光をもたらすことであり、すべての人がそれを見ることができるようにするためだと言いました。

驚くことは、イスラエルという中東の小さな国の、しかも首都ではない、ガリラヤという田舎町の片隅で、イエス様を囲む一握りの人たちが聞いていたこのメッセージが、今、全世界に現わされているということです。

イエス様は言われました。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(16:15)

イエス様の教会は閉鎖的になってはいけません。升の下に置いてはいけません。

すべての人に福音を伝えていきましょう!

マルコ 4:10-20

「また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」(4:8)

四、五、七節の種は、単数形が使われているのに、八節は複数形が用いられています。

ある種は、道端に落ちるかもしれない、ある種は、岩地に落ちるかもしれない、ある種は、いばらの中に落ちるかもしれない、しかし、多くの種は、良い地に落ちて、実を結ぶのだというたとえということです。

小河陽先生は、この種蒔きの譬の中心的使信を、このようにまとめています。

「あらゆる表面的現象にもかかわらず、確実に到来する神の国である。農夫はどんな種蒔きでも、度重なる失敗にもかかわらず、その仕事をやりとげる。同じように、イエスによって樹立される神の国は、多くの眼に余る失敗や挫折を経験したうえでしか完成されないが、最終のそして期待を越える、あり余るほどの収穫は確実である」

時が良くても悪くても、御言葉の種をまき続けましょう!

マルコ 3:20-35

「しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」(3:29)

イエス様がなされていた病気のいやし、悪霊の追い出しというのは、神の国が到来していることのしるしでした。

「強い者の家」とは、この世におけるサタンの支配のことです。

「強い者を縛りあげる」とは、サタンに対する勝利を示す表現です。

イエス様が悪霊を追い出していることは、まさに、この世におけるサタンの支配は終わり、神の王権支配が始まったということです。

だからこそ、「神の国の到来」のしるしを、悪魔の業だと宗教指導者たちが群衆を誘導しようとしたことに対して、イエス様は、強く言われたのだと思われます。

これこそ、「永遠に赦されない罪」だと。

ちょうど、医者が「いのちを救う手術」を執行することを提示しているのに、「あれは、残虐な殺人だ」と誘導しようとしているのと同じことだからです。

こころのざわめき

元旦礼拝後、皆さんを見送りちょうど片付けがひと段落した頃だったでしょうか。

カタカタと何かか動く音、ゆらゆらと揺れるハンガー。

あれ?なんとなく地面も揺れてるような気がする、、、いつものトラックの揺れとは違う感覚に地震だと気づきましたが、日本海側でまさかこんな大地震が起こっているとは思いもしませんでした。

今もなおライフラインの途絶えた場所で過ごしておられる方々のことを考えると言葉もありません。

HOPの理事である梶山先生は石川県輪島市の出身です。

数日前、救援物資を届けると共に連絡が取れない親戚の方々の安否確認のため現地に向かったことを知りました。

いまなお余震が続く現地での活動が守られることを祈るばかりです。

このような状況を踏まえ、今月の宣教献金は今回の地震で被害を受けた教会や現地での支援活動、物資調達のための献金とさせていただきたいと思います。

こころのざわめきはまだまだおさまりそうにありませんが、神様がこの国を憐れみ、希望の光で照らしてくださることをみんなで心を合わせて祈りたいと思います。

(小山晶子牧師婦人)

マルコ 3:7-19

「彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(3:15)

悪霊につかれると人は人間らしさを失います。

「悪霊を追い出す権威」とは、人間らしさの回復をもたらす権威です。

神は人を「神のかたち」(imago dei)に造られました。

しかし、人は「自分が神」かのようにふるまうことによって「人間らしさ」を失いました。

「私がこの世の中心」、「自分が良ければいいんだ」という個人主義。

「大切なのは物質だけ」という物質主義。

「私たちは神だ」というニューエイジ。

これらは人間らしさを失っている状態です。

「神のかたち」の回復とは人間らしさの回復です。

「人間らしさ」は神を神として認識する、神に創造された被造物であるという自覚から始まります。

弟子たちに与えられた権威とは「神の国」の権威です。

イエス・キリストの十字架の御業を宣べ伝えることによって行使される権威です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 2:23-3:6

「ですから、人の子は安息日にも主です。」(2:28)

イエス様のポイントは、イエス様ご自身の「権威」についてです。

「人の子」とは、当時のユダヤ人たちが認識していたダニエル書七章に出てくる「メシア」のことです。

「人の子」が来て王座につく、それが神の国のはじまりのしるしということです。

イエス様はどんな人も「安息日の主」だと言ったのではありません。

「人の子」、「メシア」が「主」、すなわち、権威ある「統治者」だと言われたのです。

まさに、人類を抑圧するどんな規定よりも、イエス様は権威があると言われたのです。

イエス様の言動、その背後にあるのは、「わたしこそメシアである」という宣言です。

「人の子は安息日にも主です。」と言われた真意は、聖書の神は「絵にかいた餅ではない」ということです。

イエス・キリストは今も生きて働かれています。

私たちの弱さをご存じで、私たちの祈り、叫びを聞いてくださり、応えてくださるということです。