マルコ 2:3-22

「イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」(2:14)

レビは有料道路の料金所のようにローマ帝国のために通行税を徴収していました。

ですから、レビは、収税所に座り、通行税だけではなく、人々の怒り、不満も、受け取らざるをえませんでした。

しかし、そこに、イエス様が来られました。

イエス様はレビを、やさしいまなざしで見つめ、「わたしについて来なさい。」と言ったのです。

レビを、ゴミのようではなく、「一人の人」として扱ってくれたのは、イエス様がはじめてだったかもしれません。

この世がどんなに私たちの存在を否定しても、イエス様は、私たち一人一人を、高価で貴い、大切な存在だと言われます。

嫌われ者のレビに、「わたしについて来なさい。」と言われたイエス様は、私たち一人一人を、大切な存在としてお声をかけてくださるお方です。

マルコ 2:1-12

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」(2:5)

「中風」(『脳出血などによる半身不随、手足のまひ等の症状』LB)の人の友人たちは、彼を癒したいという切なる思いと熱心さがありました。

彼らはイエス様のところへ運ぶために、イエス様がおられる辺りの屋根を剥がして穴をあけ、寝床をつりおろしました。

イエス様は、そんな彼らの信仰を見て、「罪の赦し」を宣言されました。

イエス様は表面的な解決ではなく、根本的な解決を与えられました。

イエス様は私たちの王として、私たちの人生全体を気にかけておられます。

肉体的な中風だけでなく霊的な中風も癒したいのです。

私たちの肉体だけでなく、私たちのたましいも健全にしたいのです。

私たちも同じ熱心さを持って、今年、家族、友人、知人をイエス様がおられるところへと運んでいこうではありませんか。

私たちは祈りをもって運んでいくことができます。

マルコ 1:35-45

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。」(1:41)

「ツァラアト」(『皮膚が冒され、汚れているとされた当時の疾患』LB)に冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願しました。

「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」(40節)

「お心一つで」という意味は

「イエス様がそう願われるならば」、

「みこころならば」

という意味です。

この「ツァラアトに冒された人」の根底にあったのは、

「イエス・キリストにはできる。」

「私はイエス・キリストが必要だ。」

ということでした。

この信仰が求められています。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

神は求める以上に答えられるお方です。

彼はイエス様の手のぬくもりとからだの癒しを体験しました。

マルコ 1:16-34

「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」」(1:7)

イエス様の言葉は、神がアブラハムに言った言葉を連想させます。

「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)

アブラハムも、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネと同じように、安定も安心も家も捨て置いて、言われたとおりにしました。

アブラハムは、父の家を出て、神が示す地へと向かったのです。

弟子たちの召命のストーリーはこのアブラハムのストーリーをほのめかしています。

つまり、ここでイエス様がなされたことは、

「『神』が新しいことをなされている」、

「神の民」を召されているということです。

アブラハムの子孫が、イスラエルの民となります。

神は私たちに信仰を求められるお方です。

信仰の一歩を踏み出すならば、神の偉大な御業を見ることになります。

マルコ 1:1-15

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」(1:1)

当時の公用語であったギリシア語の「福音」の意味は「新しい皇帝が即位する知らせ」のことでした。

また、当時のローマの貨幣は、皇帝を「神の子」(DIVI F)と刻んでいました。

ですから、先が見えない迫害の中にいたキリスト教徒たちに「神の子の福音」と記したことに、大きな意味があります。

ローマ帝国の使者は「ティベリウスが皇帝に即位した。この方に忠誠を尽くしなさい」と告げました。

福音書はそれに対して「イエス・キリストがまことの王となられた。この方に忠誠を尽くしなさい」と告げます。

実際、当時のキリスト者たちはこう訴えられました。

「彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」(使徒17:7)

これはつまり、富と力がすべてというローマの支配に対して、信仰と希望と愛というキリストにある支配を告げ知らせていたということです。