ヨエル 3:14-21

「判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。」(3:14)

聖書は、人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっていると言います。

人は皆、神の御座の前に立つ時が来ます。

聖書は言います。

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙20:12)

その裁きの日、審判の日がまだ来ていないのは、神がひとりも滅びることを望まないからだと言います。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ぺテ3:9,10)

ヨエル 3:1-13

「あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち直せ。弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ。」(3:10)

聖書は、私たちの戦いは人間に対するものではないと言います。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)

聖書はまた、弱気にならずに悪に立ち向かうことも語っています。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

私たちは弱い時に強いのです。

使徒パウロはこのように言いました。

「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。」(2コリント12:9)

ですから、信仰をもって、『私は勇士だ』と宣言しましょう!

ヨエル 2:18-32

「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、噛みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。」(2:25)

私たちの人生の中に、いなごの襲来のようなことが起こることがあります。

せっかく積み上げたものが、もろくも崩れ去ってしまうことがあります。

収穫をするためには、もちろん、地を耕し、種を蒔き、手入れをしなければなりません。

時間をかけて、「さあ、収穫だ」と思った矢先に、いなごがやってきて、すべてを失う、そんなことが起こるのです。

しかし、神は、

「食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」

と言われる神です。

神は回復の神です。しかも、倍返しの神です。

「望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。わたしは今日もまた告げ知らせる。二倍のものをあなたに返す、と。」(ゼカリヤ9:12)

ヨエル 2:1-17

「シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食を布告し、きよめの集会を召集せよ。」(2:15)

「いなごの襲来」を通して、表面的にではなく、心から悔い改めるならば、神は、律法の書に書いてあるように、災いを思い直してくださると、預言者ヨエルは伝えます。

興味深いことに、預言者ヨエルは、それぞれが個人的に悔い改めればそれで良いとは言いません。

香港のエドモンド・テオ先生の「地上側の天国」という本の中に、こんなことが書いてあります。

「神との関係を怠る礼拝は偶像礼拝です。他の信者との関係を無視する礼拝は偽善です。部屋の中に神と私だけがいれば十分だと考えているならば、それは宗教です。宗教は礼拝と交わりを切り離しますが、神の国においては、礼拝と交わりは相互に関係し相互につながっているのです。」

共に集まって祈ることに意味があります。

左斜め前方

一昨日は30年ぶりに浦和福音自由教会を訪問しリラのコンサートを無事終えることができて感謝でした。

以前も書いたようにこの教会はわたしにとって初めての奉仕教会だったということもあり正直何もできないどころか早天祈祷会を何度もすっぽかすという情けない爪痕しか残せていない場所でもあるのでいつも以上に緊張しました。

500人ほど入る礼拝堂の舞台に立ち、一礼をして顔を上げると、左斜め前方の最前列にあの坂野先生が座っておられるではありませんか。

「佐竹さーん起きてくださーい」のシュチュエーションが鮮明に思い出されわたしの緊張は最高潮に達しました。

どうにか無事コンサートを終え、緊張から解放されたと思ったら先生を交えた昼食会が用意されていました、、、しかも奥様もご一緒に。

あの時は本当に申し訳ありませんでした、と謝るわたしに奥様はくすくす笑いながら

「本当、いろいろありましたものね。覚えていますよ〜」。

ひえええ。

もしかしてわたしの記憶にある以外にも30年経っても奥様の記憶に残るような事をやらかしたのかも、、、でももう怖くて聞けませんでした。

(小山晶子牧師婦人)

ヨエル 1:13-20

「あなたに、主よ、私は呼び求めます。」(1:19)

具体的に、南ユダ王国の罪がなんであったかは語られません。

しかし、断食に言及している点を考えますと、預言者イザヤのことばを思い起こさせます。

「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。」

「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(イザヤ書58:3,4,6)

神は、自分を正当化するための宗教は、けんかをするためで、意味がないと言います。

そのような自己中心的な姿勢を悔い改めて、自分の好むことではなく、神の御国がこの地に現されるために生きるように考え方を改めるように言います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨエル書 1:1-12

「長老たちよ、これを聞け。この地に住む者もみな、耳を傾けよ。このようなことが、あなたがたの時代に、また先祖の時代にあっただろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」(1:2,3)

預言者ヨエルに関してよく分かっていませんし時代も厳密に特定することはできません。

ただこの時、いなごの襲来があったことは確かです。

預言者は、これを単なる悲劇としてではなく、神からの警告(Wake Up Call)として受け止めるように告げます。

なぜならこのいなごの襲来は、この後イスラエルに異国の軍隊が押し寄せてくることの前兆だったからです。

いなごの襲来がエルサレムの崩壊の警告だったように、この書は世界の終わりに対する警告でもあります。

その日は思いがけない時にやってきます。

いなごが襲来したように、エルサレムが崩壊したように、それは、予期せぬ時にやってきます。

マルコ 16:9-20

「主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(16:19)

神の右の座に着かれたという意味は、天においても、地においても、いっさいの権威を受けられたということです。

マタイの福音書ではこの様に記されています。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(マタイ28:18-20)

宣教はイエス様の権威の下で行うものです。

私たちに求められていることは全世界に出ていって福音を伝えることです。

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(20節)

マルコ 16:1-8

「青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」(16:6)

十字架で処刑されてから三日目、週のはじめの日である日曜日、イエス・キリストはからだをもってよみがえり、空になった墓をあとに去りました。

キリスト教徒であるならば、そのように信じています。

それで、イエス様の死を、悪のすべての力に対する驚くべき神の勝利だったと信じます。

実際、キリスト教の起源を、イエス・キリストの復活の確実性について語らないで説明することは無理があります。

歴史の中で、何度もイエス・キリストの復活を否定しようという試みがなされてきました。

しかし、イエス・キリストはよみがえられました。

そうでなければ、キリスト教自体が存在することはありません。

マルコ 15:33-47

「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(15:38)

「神殿」は天と地が重なる場所です。

しかし、当時の「神殿」はあるべき姿を失っていました。

「神殿」を利用して、祭司長たちは、自分たちの考える「正しさ」
でイエス・キリストを十字架につけたのです。

そして、十字架は神殿の幕を裂きました。

神殿の役割は、今、起こった十字架の御業によってとって代えられたということです。

今からは、生ける神の臨在の中への道は、神の御子、イエス・キリストの死を通して、すべての人に開かれたということです。

マクグラス教授はこの様に説明しています。

「十字架は、神とはこのようなものであるに違いない、とか、神とはこのような関係で会えるだろうというような先入観を捨てて、ゴルゴタの丘で神に会うようにと、促します。」