マルコ 11:20-33

「イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。」(11:29)

「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。」という質問に対して、イエス様は質問で答えられました。

これは、ラビと呼ばれる教師が議論する時に用いた一般的な慣習でした。

イエス様は、彼らのバプテスマのヨハネに対する判断が、イエス様に対する判断を決定すると言われました。

当時の宗教指導者たちは、自分たちが「神殿」を管理しているから権威があると考えていました。

そして、この箇所で明確にされたことは、彼らが神のみこころを拒絶していたという現実です。

彼らの動機は神ではなく、民衆であり、自分でした。近年、教会のマック化が懸念されています。

いわゆるお手軽さ、効率化に対する警鐘です。

教会は消費者の欲望ではなく、神のみことばを第一にする責任があります。

マルコ 11:11-19

「そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」」(11:17)

「強盗」は「過激な国粋主義者」に対して使われていた単語でもありました。

イスラエルの国は、世界の光として用いられるために選ばれたはずでした。

ところが、彼らは国粋主義に陥り、誤った選民思想で世界を裁いていました。

神殿は世界のために神の臨在を象徴するものでした。

ところが、ユダヤ人以外を除外する場所となっていました。

実際、イエス様が追い出したその売り買いをしていた場所は、「異邦人の庭」と呼ばれるユダヤ人以外の人たちのために設けられた礼拝のための場所でした。

それでイエス様は「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と、ユダヤ民族だけではない「すべての民」の祈りの家なのだと強調されたのです。

これは引用元のイザヤ書56:7の文脈です。

マルコ 11-1-10

「もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」(11:3)

イエス様が「ろばの子」に乗って入城されたことには意味がありました。

ゼカリヤ書9:9にこのような預言があります。

「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」

王であるならば、白馬に乗った方がイメージがいいと私たちは考えます。

もちろん、イスラエルに馬がいなかったからではありません。

あえて、同じウマ科の動物でありながら、愚鈍で見ばえのしないろばに、それもろばの子に乗ることを選ばれたのです。

「ちいろば」は、その背にイエス様をお乗せしたがゆえに、前進を放棄することはありません。

人知れず「主のお入用」に生きる「ちいろば」の存在が、神の国をこの地にもたらします。