1列王記 11:26-43

「このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。」(11:39)

ソロモン王の背信の影響は、この後、ダビデ王朝を苦しめ続けました。

「しかし、それを永久に続けはしない」

と神が約束されたように、ダビデの子孫としてイエス・キリストは誕生しました。

イエス様は言われました。

「しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」(マタイ12:42)

ソロモン王は神から知恵をはじめ、たくさんの祝福をいただきました。

しかし、ソロモン王の生き方は、人は知恵があるから豊かな人生を歩めるわけではないということを教えます。

しかし、イエス様はおっしゃられました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

1列王記 11:14-25

「こうして主は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王の子孫であった。」(11:14)

神はダビデにこのように言われました。

「彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」(2サムエル7:16)

神は御言葉通り、ソロモン王の不義に対して、ハダドとレゾンを敵対する者として起こし、ソロモン王を懲らしめました。聖書は言います。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)

神の懲らしめには目的があります。私たちは苦しむ時、二つの反応が可能です。

一つは、苦々しい思いを持つこと。

もう一つは、砕かれ練られ、信仰が培われ、品性が磨かれ成長して行くこと。

神の懲らしめによってより良くなるか、より悪くなるかは私たちの選択です。

旅立ちの日に

それなりに淋しくなってきました。

次男の嗣音が今週火曜日ここを旅立ちます(と言っても荷物と共に親が兵庫に送って行くのですが)。

まだハイハイをしていた頃にこの会堂に越してきて、皆さんの祈りと励ましの中成長することができました。

中学に上がることにはほとんど喋ってくれなくなり何を考えてるかわからずイライラハラハラしながらの思春期。

絶対に行きたくないと言っていた東京基督教大学に入学し、コロナ禍でのオンライン授業が約2年、受験や行事などを考えると最も打撃を受けた学年でもあったと思います。

嗣音くんは卒業後どうするの?といろんな人から言われ、どうするんでしょうね、と答えるしかなかったもどかしい日々。

神様が導いてくださるところに歩めますようにと祈ることだけが親としてできる精一杯でした。

この度私の母教会でもある尾上聖愛教会で働き人としての歩みをスタートすることになりました。

とても不思議な気持ちです。

私は22歳で栄シャロームに、嗣音は22歳で尾上聖愛教会に。

私たちの思いを遥かに超えて御業をなされる主に委ねて、旅立ちを祝福したいと思います。 

(小山晶子牧師婦人)

1列王記 11:1-13

「彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。」(11:3)

「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。」(1節)

ソロモン王が多くの異国の女性たちと政略結婚をしたのは、国を強くするためだったと思われます。

ソロモン王は自分が揺らぐことはないと過信したのだと思います。

しかし、彼女たちはソロモン王の心を覆しました。

一夫多妻制は神のみこころではないというメッセージと、神の御言葉を軽んじてはいけないというメッセージがあります。

ソロモン王が晩年に書いたと考えられている伝道者の書にはこのように記されています。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(12:13)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 10:14-29

「全世界は、神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、彼に謁見を求めた。」(10:24)

神は自分のための富よりも、知恵を願ったソロモン王に、彼が願わなかった「富と誉れ」に与えると約束しました。(3:13)

そして、その約束の成就をここにみることができます。

聖書は、「神がソロモンの心に授けられた知恵」と、「知恵」を授けるのは神であることを強調します。

聖書は言います。

「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1:5)

神は私たちに知恵を与えてくださるお方です。

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」(箴言9:10)

謙遜に、知恵を求めて祈ることができる人に、神は知恵を授けられます。

1列王記 10:1-13

「なんと幸せなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、このあなたの家来たちは。あなたの神、主がほめたたえられますように。」(10:8,9)

シェバは今のイエメンの辺りと考えられています。

そこからイスラエルに来るほど、ソロモン王の評判は広がっていました。

大事な点は、ソロモン王の知恵を聞いたシェバの女王は、主なる神をほめたたえたということです。

神の知恵が現されるとき、神の御名があがめられます。

私たちは今、聖書を通して神の知恵を聞くことができます。

イエス様は言われました。

「シェバの女王でさえ、あなたがたをきびしく罰する側に回るでしょう。彼女は、ソロモンから知恵のことばを聞こうと、あんなに遠い国から旅して来ることもいとわなかったのです。ここに、そのソロモンよりまさる偉大な者がいるのに、あなたがたは信じようとしません。」(マタイ12:42)

1列王記 9:10-28

「ソロモンの所有するすべての倉庫の町々、戦車のための町々、騎兵のための町々、またソロモンがエルサレム、レバノン、および彼の全領地に建てたいと切に願っていたものを建てた。」(9:19)

ソロモン王は富を蓄え、様々な事業を行いました。

しかし、ソロモン王が負わせたこの過酷な労働のゆえに、ソロモン王の死後、王国は分断されます。

そのことを考えるならば、彼が「建てたいと切に願っていたものを建てた」という行動は適切だったのかと考えさせられます。

「ソロモンは、主のために築いた祭壇の上に、一年に三度、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、それらとともに主の前で香をたいた。」(25節)

とあるように、神に対する礼拝を怠ったということではないと思われます。

しかし、神よりも、事業を中心にしている姿が見え隠れします。

エジプトの王ファラオの娘と政略結婚をしたのも、神のみこころではなく、自分中心になっていく彼の姿を反映しているように思われます。

1列王記 8:54-66

「こうしてソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終えた。彼は、それまでひざまずいて、天に向かって両手を伸べ広げていた主の祭壇の前から立ち上がり、まっすぐに立って、イスラエルの全会衆を大声で祝福して言った。」(8:54,55)

ソロモン王は、全会衆を前にして、へりくだり、ひざまずき、天に向かって両手を伸べ広げて祈りました。

神を認め、神を恐れ、神の前にへりくだるリーダーだからこそ、立ち上がって、民を祝福することができたのだと思います。

傲慢になって神の前にひざまずくことができなければ、自己中心に陥ってしまいます。

私たちはいつも、神の前にひざまずいて祈ることができるか問われているのだと思います。

そんなソロモン王は民にこのことを思い出させました。

「しもべモーセを通してお告げになった良い約束はみな、一つも、地に落ちることはありませんでした。」(56節)

神は信実なお方です。

1列王記 8:41-53

「あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所である天でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください。そうすれば、地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。」(8:43)

ソロモン王の祈りが続きます。

41-43節は異邦人が神を求めて神殿に来たときに、神が祈りを聞いてくださることが祈り求められます。

神殿はイスラエルの民に限定されたものではなかったからです。

神殿はすべての民の祈りの家でした。

44,45節は敵と戦うとき、

46-51節は捕囚となった時、

そして、52,53節で、

彼らがあなたを呼び求めるとき、いつもその願いを聞き入れてください。

と祈りをまとめます。

神殿がキリストの雛型だったと考えるならば、イエス様の名前によって祈り求めることがどれ程大切かが分かります。

のど飴

この冬から春にかけてずいぶんのど飴のお世話になりました。

最近は選ぶのが楽しいほどいろんな種類ののど飴が販売されていますが、龍角散のど飴は以前からリラメンバーの必需品でもありコンサート会場入りする前に必ずと言っていいほど購入しています。

ただ、これを口に入れていることをすっかり忘れて本番の舞台に上がってしまい、焦ったことは一度や二度ではありません。

そんな時は他のメンバーが自己紹介をしている間に必死で飴を噛み砕き水を飲むふりをして流し込みます。

マイクが音を拾わないようにしかも確実に噛み砕かなくてはならないのでなかなかの緊張感です。

失敗といえば目を瞑って歌っていたらマイクに歯がぶつかってしまってその音が入ってしまい恥ずかしかったことも何度もあります。

でもそんな時は「恥は我がもの栄光は主のもの」と思いクヨクヨしないようにしています。

根拠はローマ書8章28節。何度この御言葉に励まされ支えられてきたかわかりません。

全てを働かせて益としてくださる主に信頼して、今週も前進していきましょう!
(小山晶子牧師婦人)