2列王記 2:15-25

「エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」」(2:21)

エリコの町の人々は新しい神の器であるエリシャのところに来て、エリコの悪い水を癒して欲しいと問題を告げました。

それでエリシャは神のみこころを行います。

投げ込んだ「塩」は象徴的な意味だと思われます。

大事な点は「わたしはこの水を癒やした。」という主の言葉の宣言です。

なぜなら、エリコはヨシュアが呪いを宣言していた場所だったからです。

「ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」」(ヨシュア6:26)

ですから、エリシャの神の言葉の宣言はヨシュアの呪いを無効にする宣言でした。

イエス様の十字架も私たちを呪いから贖い出すためでした。(ガラテヤ3:13参照)

2列王記 2:1-14

「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。」(2:11)

預言者エリヤは後継者であるエリシャの前で、火の戦車にのって、竜巻に乗って天へ上って行きました。

彼のこの地上での人生は、決して楽なものではありませんでした。

彼は有名人でもなければ、セレブでもありませんでした。

彼は孤独な人でした。

ちいろば先生こと榎本先生はこのように言います。

「真理に立つ者は孤独を味わわねばならない。民主主義がもたらす最大の欠陥は、人々をして大衆が真理であるとの錯覚におとしいれることである。そこから大衆への迎合が生まれ、実体のない流行が支配し、主体性を欠く人間が生まれてくる。・・・しかし・・・人に捨てられたその所で、神との出会いが始まるのである。」

神は神の御国のために孤軍奮闘してきた人を見捨てることはありません。

2列王記 1:9-18

「王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。」(1:13)

第一と第二の五十人隊の長と、その部下五十人は、預言者エリヤに

「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」

と命令しました。

それに対してエリヤは言いました。

「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」

そして、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くしました。

要するに、第一と第二の五十人隊の長は、「神の人」と口先で言っていただけでした。

そのため、痛い思いをしてその意味を知ることになったのです。

神に対して聖なる恐れをもつことは大切なことです。

2列王記 1:1-8

「そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。」(1:3)

北イスラエルの王、アハズヤは、屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った時、「ハエの神」(バアル・ゼブブ)に治るかどうか尋ねるように使者たちを遣わします。

困難な時に何に頼るかが、その人の信仰を表します。

アハズヤ王はまことの神を忘れて人間が作った「ハエの神」を信奉していました。

そんな王の使者たちに神はエリヤを遣わし、裁きを宣告します。

裁きの宣告は立ち返るためです。

神は言われます。

「しかし、悪しき者でも、自分がしている悪事から立ち返り、公正と義を行うなら、彼は自分のたましいを生かす。彼は反省して、自分のすべての背きから立ち返ったのだから、必ず生き、死ぬことはない。」(エゼキエル書18:27,28)

オバデヤ 1:15-21

「しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。」(1:17)

この箇所から学べる霊的な法則は、「領地を所有する」信仰です。

エジプトを脱出したイスラエルの民は、何もせずに約束の地に定住できたわけではありません。

領地を所有しなければなりませんでした。

神は私たちのために領地を備えておられますが、私たちは信仰をもって所有しなければなりません。

暴力によってではありません。

信仰によって所有するのです。

カルバリーチャペルのチャック・スミス先生はこう言います。

「私たちは今日、自分の領地を所有することができます。神が望んでおられるレベル以下の平凡な人生に甘んじてはいけません。神のものを追い求めましょう。神の力を追い求めましょう。神の霊の油注ぎを追い求めましょう。信じましょう。そして、あなたのものをとりましょう。」

オバデヤ 1:1-14

「岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。」(1:3)

オバデヤ書は旧約聖書の中でもっとも短い書で、全部で21節しかありません。

「エドムについてこう言われる。」(1:1)

とあるように、エドムに対する預言です。

エドムはエサウの子孫のことです。

双子の弟のヤコブの子孫がイスラエルで、その関係は、エサウとヤコブが微妙であったように、微妙でした。

エドムの罪は「高慢」でした。

エドムの人々は高慢にも神を忘れ、このように言います。

「だれが私を地に引きずり降ろせるのか」。

神は「高慢」になっている人を放っておくことはありません。

ペテロの手紙第一には明確にこのように記されています。

「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。」(5:5,6)

エリヤスとアニー

まだまだ先のことだと思っていたエリヤスとアニーの来日がいよいよ今週木曜日となりました。

結婚してまもない二人は20代前半。

新婚旅行の代わりに短期宣教を希望して(それだけでも感動します)8月20日までの2ヶ月、主に栄シャローム福音教会を拠点として活動することになっています。

キャンプでの奉仕や日曜日にTPKF関係教会へ奉仕に行くことは決まっているのですがウイークデイの活動をどうするかは来日し直接話し合ってスケジュールを組むことになっています。

ですので皆さんからもぜひアイデアを頂きたく思います。

せっかくの宣教の機会、皆さんがイエス様を伝えたいと願っている人にどんな企画なら教会に足を踏み入れてもらえるかな、と自分ごととして考えていただき一緒に実現していけたら嬉しいです!

例えば子どもの一日英語キャンプや英語カフェ、北欧クッキングなど。

私も30年近くやっているとアイデアも枯渇して少々悩んでいますのでご協力よろしくお願いします。

そして今からでも遅くないのでエリヤスとアニーの宣教が実り多きものであるよう是非お祈りください。

(小山晶子牧師婦人)

2ペテロ 3:10-18

「ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。」(3:17)

使徒パウロはこのように言いました。

「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」(ローマ2:4)

神の忍耐は私たちに与えられたチャンスです。

この世界に福音を伝えるチャンスであり、聖なる生活を生きるチャンスです。

しかし、この地上での生活がすべてかのような惑わしがあります。

ですから私たちは気をつける必要があります。

具体的には、

「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(3:18)

と聖書は言います。

私たちは聖書の御言葉を学び続けて、さらに深くイエス様を知るために努める必要があります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2ペテロ 3:1-9

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(3:9)

キリストの再臨の約束を嘲る者たちがペテロの時代からいました。

ペテロの答えは、神の愛のゆえに忍耐しているということです。

「遅れている」ことは、「ない」こととは違います。

しかし、神は「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。

それは、ニネベが滅びるのを待っていたヨナに、神が語られたことを思い出させます。

「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」(ヨナ4:10,11)

2ペテロ 2:12-22

「その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。」(2:19)

偽教師の特徴は人の耳に心地よい言葉を語ることです。

偽りの自由、滅びに導く自由を約束することです。

例えば、「ギャンブルをする自由」を主張する人がいます。

しかし、ギャンブル依存症になって、自分の人生を台無しにするならば、それは自由と呼べるでしょうか。

ルターは真の霊的なキリスト教的なの自由をこのようにまとめています。

「キリスト者は自分自身において生きることはなく、キリストと隣人において生きる。キリスト者はキリストにおいて信仰に生きる。また、キリスト者は隣人において愛に生きる。キリスト者は信仰によって自らを超えて神の中に入り、愛によって神から出て再び自らのもとに戻るが、他方で常に神と神の愛にとどまる。」(キリスト者の自由)