2ペテロ 2:1-11

「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」(2:1)

初代教会においても人々を惑わし、「滅びをもたらす異端」を持ち込む人たちがいました。

ペテロは、私たちが何でも受け入れないように気をつけるように言います。

残念ながら、「キリスト教」と言いながらも、内実は「滅びをもたらす異端」ということがあります。

単純に何でも信じてはいけないということです。

偽教師の特徴は、「自分たちを買い取ってくださった主さえも否定」することです。

イエス・キリストが十字架の御業によって、罪を贖ってくださったことを否定する教えは偽りです。

イエス・キリストよりも自分を高くしているならば、それは明らかに偽教師です。

2ペテロ 1:12-21

「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」(1:20,21)

聖書は、

聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったもの

ですから、聖霊様の助けを求めて解釈する必要があります。

しかし、それは、「霊的」に見える人たちの勝手な解釈を鵜呑みにするということではありません。

聖書は誤りなき神の言葉ですが、解釈をする人間は誤ることがあります。

そのような謙遜さを持つことは重要です。

基本的には、聖書は文学的に書いてありますので、文学的な文脈を踏まえて解釈しているか、注意する必要があります。

また、歴史的な文脈の中で記されていますので、歴史的な文脈を踏まえて解釈しているか、注意する必要があります。

2ペテロ 1:1-11

「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(1:5-7)

すべては神の恵みであり、イエス・キリストを信じるだけで救われるのですが、イエス・キリストに捕らえられたならば、あらゆる熱意を傾けて、追求するようになります。

ありのままで何もしなくても自然と身につくとは言いません。

あらゆる努力をして」(LB)

とあるように、この価値観に生きることを欲し、自分の意志で、「イエス・キリストを知ること」を選んでいく、選択していく必要があると言うことです。

神はすでに、神の力によって、必要なすべてのものを私たちに与えてくださっています。

だから言われます。

「これらの贈り物をいただくために、あなたがたはあらゆる努力をして神を理解し、神が何を望んでおられるかを知らなければなりません。」(1:5LB)

1ペテロ 5:8-14

「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(5:9)

ペテロは「悪魔に対抗しなさい」と言います。

ヤコブも同じように言います。

「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

ペテロが言及する具体的な対抗策は二つです。

一つ目は「堅く信仰に立」つこと。

二つ目は、「世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきている」ことを認識すること。

CSルイスはこのように注意します。

「悪霊に関して私たちが陥りやすい、二つの、等しく、かつ相反する間違いがある。一つは、悪霊の存在を信じないこと。もう一つは、悪霊の存在を信じて、過度にそれを意識し、不健全な興味を抱くことである。悪霊らは、この両方の間違いに喜び、物質主義者や魔術をする者を同じ喜びで迎える。」

溢れる

 この場所に越してきて早22年。

様々な家電が寿命を迎えていきました。

そんな中とうとう先週月曜日夜に給湯器が壊れてしまいました。

給湯器の寿命は長くて15年らしいので良く持ってくれたとは思うのですが突如止まらなくなったお風呂の給水口からの水はまるで滝のよう。

「あふれる〜あふれる〜あなたを〜したう〜おもい〜」と、なすすべなく歌う私を尻目に英児先生は慌てて雨の中元栓を閉めに外へ出ていきました。

一時的に水は止まったもののこのままでは全ての水が使えない。

この時点ではお風呂の問題であってまさか給湯器に原因があるとは思っていませんでした。

電気関係でいつもお世話になっている大塚先生に伺うと、その症状は給湯器の問題だとのアドバイスいただき、早急に交換することとなりました。

給湯器に原因があると教えていただかなかったら、私は今頃お風呂のリフォームを必死で考えていたと思います。

自分が思っていた場所と全く違う所に原因がある、、、

人生における教訓のようです。

そういえば箴言にこのような箇所があります。

「自分を知恵あるものと思うな。」

アーメン。

 (小山晶子牧師婦人)

1ペテロ 5:1-7

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(5:6)

へりくだることは、神の力を認めることです。

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

ということを認めて、イエス様の内にとどまることです。

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

ということを認めて、祈りの人となることです。

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:19)

と、神の愛によって生きることです。

そして、

「神は、ちょうど良い時に」

すべてを益にしてくださいます。

マイナスは必ずプラスになります。

ですから、全き信頼を持って、神の臨在と共に前進しましょう!

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1ペテロ 4:12-19

「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。」(4:15)

キリスト者であっても、悪事を働くならば、その報いを受けることになります。

「だれも、人殺しや盗みの罪に問われたり、問題を引き起こしたり、みだりに他人のことに首を突っ込んだりして、そのために苦しむことがないよう気をつけてください。そんなことが、私の耳に入らないようにしてください。」(15節LB)

しかし、そのような苦しみとは別の苦しみがあります。

「しかし、クリスチャンだという理由で苦しみを受けるなら、少しも恥じることはありません。それは、キリストの家族の一員として、キリストの名で呼ばれる特権を受けた証拠ですから、神をほめたたえなさい。」(16節LB)

世界には、今もクリスチャンだという理由で迫害を受けている人がいます。

「殉教者の血は教会の種子である」ことを心に留めたいと思います。

1ペテロ 4:1-11

「それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。」(4:2)

私たちが生きていく中で、常に二つの選択があるということが指摘されています。

一つは、人間の欲望のために生きること。

もう一つは、神のみこころのために生きること。

もっとも、「神のみこころのために」と思いながら、「自分の欲望のために生きること」となることもあると思います。

「神のみこころ」か「人間、つまり自分の欲望」か、その指針、判断は、聖書にあります。

私たちは、方向性を見失わないためにも、「聖書」を読む必要があります。

私たちは、聖書を信仰と生活の唯一の規範だと信じています。

聖書は、世界で最も有名な書物というだけでなく、人生を変え、社会を変え、世界を変え得る偉大な力を持つ書です。

聖書の語っている世界に生きること、それが、「神のみこころ」のため、「神のみこころ」の中に生きることです。

1ペテロ 3:13-22

「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(3:15)

「私の希望」と「キリストを主とし」、自分にとって特別な存在とすることは大事です。

しかし、ペテロは「私の希望」ではなく、「私たちの希望」だと記しました。

私たちのうちにある希望」を証するためには、この「私たち」の部分を理解する必要があります。

信仰は個人的なものだから、一人で聖書を読み、祈っていればいいという話ではありません。

ぶつかることもあると思いますが、イエス様を中心にして一緒に集まり、一緒に祈り、一緒に賛美し、一緒に聖書を読み、一緒にこの世界に神の御国を現わしていく、それが「私たちのうちにある希望」を証するということです。

今、世界では、歴史上もっとも急速に教会は成長しています。

そのような世界規模の「神の民」の「希望」をもっているのです。

1ペテロ 3:1-12

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(3:9)

神はイスラエルの民に言われました。

「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:4-6)

「祭司の王国」は、主なる神が治める王国の祭司となると言うことです。

主なる神への捧げ物を世界の民に代わって捧げるという意味があると同時に、主なる神の祝福を取り次ぐものとなるという意味があります。

世界を祝福する神の祝福を、その代理として諸国民に取り次ぐ存在となるという意味です。

しかし、イスラエルの民はこの使命を見失ってしまいました。

イエス・キリストはユダヤ人の王として十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえることによって、この使命を全うされ、イエス・キリストを信じる者たちに、この使命を与えられました。

私たちは、「祝福を受け継ぐために召されたのです」。