1ペテロ 2:11-25

「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」(2:21)

キリスト者の模範はキリストです。

神のひとり子は、人となって、私たちに模範を残されました。

具体的に、このように記されています。

「キリストは一度も、罪を犯したり、偽りを語ったりなさいませんでした。侮辱されても、苦しめられても報復をせず、公平にさばかれる神にご自分をお任せになりました。」(22,23節LB)

私たちはこのような生き方を自発的に選ぶキリスト者の自由があります。

聖書は言います。

「あなたがたは、この世から解放された自由人です。しかし、それを好き勝手なことをするためにではなく、ただ神に従うことに用いなさい。」(16節LB)

イエス様は神のひとり子であり、自由があり、力もありました。

しかし、私たちのために苦しみを受け、模範を残されました。

1ペテロ 1:22-2:10

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(2:9)

私たちが、真剣に神のみことばに自分の思いを刷新しているならば、自分が「王である祭司」であることを自覚しているのならば、聖霊によって、そのように日々行動し、習慣化していくことが大事です。

日々聖書を読み、聖霊によって、神のみことばに生きることを習慣化する中で、神のみことばに生きることが品性として、第二の天性として身につくならば、その時が来た時、そのように行動している自分を見ることになります。

日々、聖書のみことばを読み、みことばに生き、みことばを習慣化する中で、私たちの品性、キャラクターは刷新され、試みの日に、それはあらわにされます。

欧州万年草

教会の周りに咲いていた黄色い花の正体が判明しました!

欧州万年草(オウシュウマンネングサ)と言うそうです。

ベンケイソウ科マンネングサ属、寒冷地でも放任で咲くそうです。

なんてありがたい。

ヨーロッパに自生する多年生植物がなぜこんなに教会の周りに、まるで植えたかのように咲いているのかは謎です。

天使が植えてくれたのでしょうか?

去年までは全く気づかなかったので、ますます不思議。

黄色い教会の壁に色合いがぴったりで見るたびに嬉しくなってしまいます。

今年は薔薇も沢山咲いて良い香りがしばらく続いていましたし、車道側の花壇の花も隙間がないほど咲いていて何度も写真を撮りました。

南高梅の木も立派な実が鈴なりで収穫が待ち遠しいです。

唯一残念なのはアーモンドの木。

どうやら虫が入ってしまったようで枯れてしまいました。

また是非トライしたいと思います。

人間が成長や変化を楽しむことができることも神様の恵みなのですね。

今日で献堂22年。

この教会も様々なシーズンを通りながら成長していることを感謝します。

これからも主の御手の中で育まれていきますように、祈ります。

(小山晶子牧師婦人)

1ペテロ 1:10-21

「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1:18,19)

イエス・キリストの十字架の御業は神が身代金を払ってくださったと言う意味があります。

当時のギリシャ・ローマ社会は、戦争捕虜が奴隷として売られる社会でした。

彼らが解放され、自由になるためには、身代金が必要でした。

人は、最初の人アダムとエバが神に逆らい、罪を犯してから、罪の奴隷となってしまいました。

罪の奴隷、罪の支配から解放されるためには、自由にされるためには、身代金が必要でした。

その値は「罪の報酬は死」(ローマ6:23)でした。

イエス・キリストの十字架の死は、私たちのためにその報酬を支払い、私たちを罪の奴隷から買い戻す、贖うと言う意味がありました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1ペテロ 1:1-9

「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。」(1:3)

キリスト者とは何かがこの挨拶に込められています。

「父なる神は、ずっと昔からあなたがたを選び、ご自分の子どもにしようと決めておられました。そして、聖霊が働いて、あなたがたの心はイエス・キリストの血によってきよめられ、神に喜ばれる者へと変わったのです。どうか、神があなたがたを祝福し、すべての不安と恐れから解放してくださいますように。」(LB)

聖書が語る私が私です。

社会的地位などこの世が張るレッテルに縛られないように気をつける必要があります。

キリスト者が選ばれた理由は、新しい世界の道標となるためです。

イエス・キリストの十字架と復活によって、新しい世界はすでにはじまりました。

イエス・キリストが再び来られる時に完成します。

それまで、キリスト者は神の御心をこの地に現す道標なのです。