1テサロニケ 2:13-20

「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」(2:13

聖書のことばはただの言葉ではなく、神のことばです。

そして、神のことばとして信じ、受け入れる者たちのうちに神のことばは働きます。

創世記から黙示録までの66巻が神のことばです。

聖書を神のことばと信じるならばみことばの力を体験します。

このテサロニケの教会がそうであったように、教会は聖書を神のことばとして信じる者たちの集まりです。

聖書の権威を認める者たちの集まりです。

1テサロニケ 2:1-12

「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」(2:4)

教会は人を喜ばせるためではなく、神に喜んでいただくことを第一としなければ存在意義を失ってしまいます。

使徒パウロはそのことを人一倍注意していたようで、このように言っています。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:2,3,4)

気をつけないと、人を喜ばせることばかり語るようになってしまう危険があります。

聖書のみことばが語られているかどうかが問われます。

1テサロニケ 1:1-10

「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。」(1:5)

「ことばだけでなく」とあるように、「ことば」も大切です。

パウロのテサロニケでの伝道の様子は使徒の働き17章に記されています。

このように記されています。

「パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。」(17:2-3)

聖書のみことばを語ること、聖書に基づいて論じることは大切なことです。

神のことば、福音が語られる時、何かが起こります。

福音を伝えていこうとする中で、「力と聖霊と強い確信」は与えられていきます。

2列王記 25:18-30

「彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。」(25:29)

列王記の最後の章は、バビロン帝国によるエルサレムの包囲、陥落という悲劇が記されているのにも関わらず、最後は、何か希望を与えてくれます。

ネブカデネザル王の死後、エビル・メロダク王は、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、親切にし、厚遇しました。

榎本師はこの箇所に関してこんなコメントをしています。

「私たちにとって大切なことは現実を正しく把握することと共に、現実を支配したもう神を見失わないことである。そのときヒステリックな悲観主義にも、無責任な楽観主義にもなることはない。現実をしっかりと受けとめながら、それがどうあろうとも、なおそこで希望をもって生きることができるのである。」

エホヤキン王は、牢獄に入れられた時、自分の人生は終わったと思ったと思います。

しかし、神は句点を読点に変え、マイナスをプラスに変えてくださるお方です。

そして、たねや

行ってきました、TPKF大会。

急遽葬儀が入ったため車組と別れて行きは新幹線で行くこととなり、初めて米原駅で下車、新快速姫路行きに乗って守山駅へ。

ちょっとした旅を経験できました。

5年ぶりの対面での大会はとても楽しくて主にある家族っていいなと改めて感じました。

今回で3回目の滋賀。

思い起こせば最初の滋賀での大会の時は次男が絶賛反抗期。

でも今回は叱り飛ばしたことも笑い話になる、そんな穏やかな時となりました。

ずっと行きたかったたねやさんにも行くことができ、あんみつを食べてほっこり。

お盆真っ只中にも関わらず渋滞に遭うことなく戻ってくることができました。

大会での恵みはおいおいお分ちできればと思います。

さて、今日でエリヤス兄とアニー姉の日本での宣教活動は終了となり火曜日に帰国します。

この2ヶ月間様々な働きを誠実に一生懸命して下さいました。

これからのお二人の献身の人生が主の御手の中でますます祝福され用いられていくことを心から願い、祈って送り出したいと思います!

今日は是非二人に感謝の気持ちを伝えてあげてくださいね。

(小山晶子牧師夫人)

2列王記 25:1-17

「主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。」(25:9)

バビロン帝国のネブカデネザル王はエルサレムを攻略し、エルサレムは陥落しました。

彼は家来を遣わして、神殿を焼き、中にあった宝物をバビロンへ運ばせました。

どうしてバビロンの軍勢は神の神殿を破壊することができたのでしょうか。

エゼキエル書11章にその理由が記されています。

「主の栄光はその都の中心から上って、都の東にある山の上にとどまった。」(23節)

つまり、ユダの国の人々の罪のゆえに、神の臨在はすでに神殿から去っていました。

神の臨在を失った神殿には意味がありません。

Ⅰコリント3章にはこう記されています。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(16節新共同訳)

教会も愛を失い、神の臨在を失うならば、何の意味もありません。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 24:8-20

「主が告げられたとおりであった。」(24:13)

主はソロモンに告げました。

「もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。この宮は廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな驚き恐れてささやき、『何のために、主はこの地とこの宮に、このような仕打ちをされたのだろう』と言う。人々は、『彼らは、エジプトの地から自分たちの先祖を導き出した彼らの神、主を捨ててほかの神々に頼り、それを拝み、それに仕えた。そのため主はこのすべてのわざわいを彼らに下されたのだ』と言う。」(1列9:6-9)

主の御言葉は永遠に変わりません。

2列王記 23:31-24:7

「そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。」(24:2)

「そのしもべである預言者たち」の一人は、預言者ハバククです。

彼は神にユダの国に起こっていた暴虐を訴えていました。

すると、神がカルデア人を用いてユダの国を罰することが告げられます。

それを聞いたハバククは戸惑います。

神はハバククにこう告げます。

「見よ、高慢な者を。その心は正しくない。しかし、正しき人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4聖書協会共同訳)

神がどうして試練を与えられるか、私たちの限られた頭脳では理解することはできません。

ただ、神が私たちに求められていることは信仰です。

神を信頼することです。私たちは信仰によって生きることが求められています。

2列王記 23:21-30

「こうして、彼は祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した。」(23:24)

ヨシヤ王が宗教改革を始めた4年後、預言者エレミヤは、神様からの召命を受けて悔い改めのメッセージを語り始めます。

エレミヤとヨシヤ王は、ほぼ、同い年でした。

祭司ヒルキヤが「律法の書」を見つけたと書いてありますが、エレミヤの父の名も、ヒルキヤでした。

同一人物だった可能性はあります。

ヨシヤ王とエレミヤの宗教改革は、長くは続きませんでした。

13年間でした。

結局、南ユダ王国も滅ぼされ、バビロンに捕囚されていきます。

しかし、ユージーン・ピーターソンは、ヨシヤ王とエレミヤの宗教改革が「神の民」を形成し、この後の滅亡、捕囚と言う過酷な状況にあったユダヤ人たちが生き残り、繁栄していく要因となったと言います。

聖書の御言葉を土台とした宗教改革が、神の民を礼拝の民、愛の民とし、この後500年という年月を耐え抜く力を与えたと指摘します

2列王記 23:10-20

「ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えた。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとした。かつて、神の人がこのことを預言して叫んだ主のことばのとおりであった。」(23:16)

ヨシヤ王の時代は紀元前600年代。

この箇所に出てくる神の人の預言はヤロブアム王の時代で紀元前900年代。

要するに300年前の話です。

ヤロブアム王は金の子牛を神々として作り、人々に拝ませました。

彼は自分勝手に祭壇を作り、一般の民の中から祭司を任命しました。

神の人はその祭壇に向かって言いました。

「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」(1列王記13:2)

神の御言葉は成し遂げられます。