2列王記 23:1-9

「王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、および下の者から上の者まで、すべての民とともに主の宮に上り、主の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせた。」(23:2)

ヨシヤ王による国家的宗教改革は、ほこりを払い、神の御言葉を読み始めた時に、起こりました。

ユージーン・ピーターソンは言います。

「改革は、政治家であれ、預言者であれ、人々に激しい非難や道徳的な命令を投げかけることから始まったのではない。それは、啓示から始まったのである。」

聖書を読み始める時、何かが始まります。

「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17)

ヨシヤ王がまず行ったことが、聖書をすべて「彼らに読み聞かせた」ことだったことは注目に値します。

2列王記 22:12-20

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ。」(22:13)

ヨシヤ王は道徳的にも政治的にも混乱していた時期に即位しました。

彼の祖父であるマナセ王は、南ユダ王国、最悪の王でした。

「罪にまみれたマナセ王のその他の業績」(21:17LB)とあるように、主の目に悪であることを行い続けた王でした。

マナセ王の時代はアッシリヤ帝国の全盛期で、彼はアッシリヤ帝国に憧れ、アッシリヤのものを輸入し、南ユダ王国をアッシリヤの偶像で満たしました。

しかし、ヨシヤ王は主を求めました。

「彼の治世の第八年、まだ若いころに、彼は父祖ダビデの神を求めることを始め」(2歴代誌34:3)。

主を求めることから始まります。

進化か退化か

パリオリンピック期間も終盤、連日熱戦が伝えられています。

本来は「平和の祭典」。

ですがオリンピックのたびに対立や溝が深まっているように感じることも少なくありません。

競技者の失敗や審判に対するネットでの誹謗中傷は目に余るものがあり、進化かどころか退化しているように見える人間の性質に悲しく感じます。

そうこうしているうちにバングラデシュでは学生たちの暴動と政権の崩壊。

イギリスでの移民に対するヘイト、ヒズボラの攻撃、イランでのハマス幹部暗殺などこの数週間で広がった戦いをみる時にやはり人は進化などしないことをわたしは確信するのです。

進化が「ものごとが優れたものに発展していく」のであれば明らかに世界は「退化」しているのではないでしょうか。

便利になったはずの世界で傷つけあう様は滑稽にさえ見えます。

今年で戦後79年。

この痛んだ世界の中でクリスチャンは平和をつくり、破れ口に立つことがますます求められると思います。

まずは一番身近な人との平和をつくることからはじめていきましょう。

神様との関係が正しく平和であることから全てが始まります。

(小山晶子牧師夫人)

2列王記 22:1-11

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」(22:11)

主の宮で律法の書を見つけました」(8節)と報告されたということは、聖書を読むことも、教えられることもなかったということです。

ヨシヤ王の時代まで、南王国が混乱していた理由の一つは、このように神の御言葉が隠されていたからです。

神の御言葉が隠されてしまう時、悪に対する認識は薄れ、混乱が起こります。

私たちは、サタンの策略の一つが、人を神の御言葉から引き離すことであることを知っています。

聖書を読まなくなるならば、信仰も生活も死んでいきます。

毎日、聖書を読み始めるだけでも、信仰も生活もいのちがよみがえります。

ユージーン・ピーターソンは言います。

「もし、あなたの人生のどこか―霊的生活、友情、結婚、情熱―が死んでいるなら、神の御言葉を個人的に発見することが助けになります。」

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 21:10-26

「マナセは、ユダに罪を犯させて、主の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」(21:16)

預言者イザヤは、ヒゼキヤ王の息子、マナセ王によって殺害されたと言われます。

ヘブル書11:37の「のこぎりで引かれ」たのは、預言者イザヤのことだと考えられています。

実際、歴代誌にはこのように記録されています。

「主はマナセとその民に語られたが、彼らは耳を傾けなかった。」(2歴33:10)

預言者の声に耳を傾けなかったマナセ王は痛い思いをして学ぶこととなります。

アッシリア軍がマナセ王をバビロンへ引いていくのです。

「しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。」(2歴33:12,13)

2列王記 21:1-9

「こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた主の宮に、いくつもの祭壇を築いた。」(21:4)

マナセ王の時代のユダ王国は、周辺諸国との交易が盛んで経済的に発展した時代でした。

しかし、経済的な豊かさが霊的堕落を生み出しました。

本来、主なる神のみを礼拝するために建てられた神殿に、様々な神々の祭壇が置かれたのです。

残念ながら、歴史は繰り返します。

主なる神のみを礼拝する場所であるべきキリスト教会で、キリスト以外の救いが宣べ伝えられているならば、聖書以外の教えが語られているならば、同じ轍を踏んでいると言えます。

キリスト教会はたとえ排他的と言われても、キリスト以外に救いはないことを宣言していく必要があります。(使徒4:12)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

2列王記 20:12-21

「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。」(20:19)

南ユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされます。

この時、バビロンの使者たちに、ヒゼキヤ王がすべてのものを見せたのは、彼が傲慢になっていたからだということが歴代誌に解説されています。

「ヒゼキヤ王が奇跡的に治ったことを知ろうとバビロンから使節が遣わされて来た時、神は彼のするままにしておきました。彼がどのように振る舞うかを試すためでした。」(2歴32:31LB)

歴代誌にはさらにこのように記録されています。

「そこで、王とエルサレムの住民は高慢の罪を悔い改め謙遜になったので、主の憤りは去り、ヒゼキヤの在世中、二度と主の怒りは臨みませんでした。」(26節)

ヒゼキヤ王の発言は、謙遜に神の御言葉を受け入れたということです。

神はへりくだる者に恵みを与えられます。

2列王記 20:1-11

「「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。」(20:3)

ヒゼキヤ王は「死の備えをせよ」と言われた時に、大声で泣いて祈ったと言います。

これは死への恐怖というよりも、アッシリア軍がユダに侵攻していた頃だったからだと指摘する学者がいます。

後継者のマナセがまだ若かったので、ヒゼキヤ王はもう少し自分が生きて、統治する必要があると考えたというのです。

いずれにせよ、神は彼の涙の祈りを聞かれました。

イエス様もこの地上で涙の祈りをされたと聖書は教えます。

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

感情的な内容ですが、神は私たちの心も気にかけておられます。

2列王記 19:29-37

「わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」(19:34)

ヒゼキヤ王の祈りの答えは奇跡であるだけではなく歴史です。

「こんな奇跡が起こることなどありえない」と多くの人々は考えていました。

しかし1830年、英国人のテイラー大佐がプリズムを入手し、その記述を解読することによって、それが歴史的事実であったことが判明しました。

「センナケリブの角柱」とも呼ばれるテイラープリズムにはこう記録されていました。

「ユダヤ人ヒゼキヤに関して言えば(中略)彼自身は、私が王都エルサレムにかごの中の鳥のように閉じ込めた。私は彼を見張り所で取り囲み、誰も彼の町に出入りができないようにした。」

この記録は考古学者に注目されています。

セナケリブ王はエルサレムを包囲し、誰も出入りが出来ないようにしたにも関わらず、それ以上のことは記録されていません。

これは彼がエルサレム攻略に失敗したことを意味します。

2列王記 19:14-28

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取って読み、主の宮に上って行き、それを主の前に広げた。」(19:14)

アッシリヤ帝国のセナケリブ王からの脅しの手紙を受け取ったヒゼキヤ王は、主の宮に、その手紙をもって上って行きました。

彼は問題を認識しつつ、その問題を神のもとに持って行ったのです。

これは聖書が私たちに勧めていることです。

Ⅰペテロ5:7に、こう書いてあります。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

神は私たち一人一人を愛しておられ、私たち一人一人のことを心にかけておられるお方です。

ですから、ヒゼキヤ王がその問題の手紙をもって主の宮に入っていったように、私たちが問題をもって主の御前に出て祈る、神に委ねる、神にお任せすることを、神は願われています。

思いがけない問題が降りかかって来る時こそ、問題を祈りに変える時です。

祈りを聞かれる主は生きておられます。