横浜の歩き方

有名な旅ガイドブック『地球の歩き方』からなんと横浜市バージョンが先週発売されました!

大抵忘れ去られている栄区もしっかり掲載されています。

見開きで横浜市歌。

自慢じゃないけど高砂市歌など一文字も覚えていない私には、学校行事ごとに歌われる横浜市歌の父母歌唱率に毎回驚かされていました。

400ページ以上もあるこのガイドブック、掲示板の前に置いておきますので興味のある方はぜひ。

それにしても横浜市がさまざまな発祥地であることは知っていましたがまさか不二家もとは。

明治43年元町で開店したそうです。

ちなみに日本で一番売れている駅弁は崎陽軒のシュウマイ弁当。

私が夫に初めてもらったお土産もシュウマイでした、、、。

魅力あふれる横浜で、イエス様の魅力を伝えるにはどうしたらいいのか。

それにはまず私たちクリスチャンが、イエス様の魅力を知る必要があると思います。

3行書いたら書くことがなくなるような寂しい主との体験ではなく、ガイドブックが書けるぐらいイエス様の魅力、聖書の素晴らしさを知りたいものです。

皆さんは今、イエス様のことを何ページ書けそうですか?

(小山晶子牧師夫人)

2列王記 19:1-13

「あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。」(19:4)

紀元前701年、破竹の勢いで進撃するアッシリヤ軍に包囲されたヒゼキヤ王。

その時、彼が求めたことは祈ることでした。

彼らは預言者イザヤに言いました。

「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。」

カンタベリー大主教だったウィリアム・テンプルは言いました。

「私が祈るとき、偶然が起こる。祈らないと、起こらない」

祈らなければ開かれない世界があります。

聖書学者ゴードン・フィーはこのように言います。

「神は祈りに答えなければならないわけではないが、答えられる。」

神は私たちの祈りを用いて、神の栄光を表わし、神が今生きて働かれていることを、この世に知らしめます。

四方八方塞がれたとしても、天は開かれています。

日本の教会のため、牧師たちのため、信徒たちのため、祈りの声をあげましょう。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 18:26-37

「民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。」(18:36)

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(1ペテロ5:8,9)

悪魔の手口はラブ・シャケの言葉と似ています。

悪魔は、神の民の信仰をあざ笑い、信仰を揺るがそうとします。

神の力を否定する言葉の背後には悪魔がいます。

悪魔に対抗するには、エバのように悪魔の誘いに乗らないことです。

堅く信仰に立って対抗する方法は祈りです。

聖書は言います。

「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(エペソ6:18)

2列王記 18:13-25

「アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。」(18:17)

大英博物館にはアッシリア軍がラキシュを攻略した壁画が展示されています。

ラキシュはエルサレムの前の最後の砦であったことが、そこから大軍を送ったというこの一文から分かります。

アッシリアの王は言いました。

「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」(19節)

この後、ヒゼキヤ王は、主なる神により頼み、祈りに導かれます。

そして、神は祈りに応えられ、アッシリア軍はエルサレムを攻略することに失敗します。

大英博物館にエルサレムでなく、ラキシュの壁画が展示されている理由は、神が祈りに答えられた歴史的証拠です。

神は私たちの祈りを用いられ、御業を行われます。

主なる神に拠り頼んでいるならば、私たちは祈りに導かれるはずです。

そして、祈りを聞かれる主なる神を私たちは体験します。

2列王記 18:1-12

「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」(18:5)

ヒゼキヤ王の特徴として聖書が評価しているのは、彼が

「主に信頼していた」

ことです。

聖書は言います。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

神は私たちに信仰を求められます。

アブラハムは、

「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4:18)

ました。

使徒パウロもこう言っています。

「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」(2コリント5:7)

神は私たちに信仰によって生きることを求められています。