ネヘミヤ記 9:1-8

「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象を、地とその上のすべてのものを、海とその中にあるすべてのものを造られました。あなたはそのすべてを生かしておられます。天の万象はあなたを伏し拝んでいます。」(9:6)

イスラエルの回復は、神の御言葉を聴き、悔い改めることから始まりました。

「彼らはそれぞれ所定のところに立って、昼の四分の一は、彼らの神、主のみおしえの書を朗読し、次の四分の一は、彼らの神、主に告白をして礼拝した。」(3節)

そして、レビ族が祈りを導きました。

祈りは、賛美の言葉に続いて、神がどのようなお方であるかを告白するものでした。

それは、教会の歴史の中で告白されてきた使徒信条の出だしを思い出させます。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」

私たちは全地万物を創造し、治められる、父、子、聖霊の唯一なる神に祈りを捧げています。

生もみじ 

先日広島での仕事から戻ってきた長男がお土産に「生もみじ」を買ってきてくれました。

しっとりもっちりとした生地に甘さ控えめのあんこが入った新しいタイプのもみじ饅頭で、調べてみたら米粉を使い10年かけて開発した広島新銘菓だそうです。

最近「生どら焼き」や「生カヌレ」「生チョコレート」など「生」という言葉がつくお菓子が増えましたが一般的には生菓子の定義は水分量が30%以上のもの、ということだそうです。

ところで、これをクリスチャン生活に当てはめてみるとどうでしょう。

30%以上御言葉に導かれている「生クリスチャン」、10〜30%ぐらいは御言葉を土台としている「半生クリスチャン」、ほとんどもしくは全く御言葉に生きようとしていない「干クリスチャン」わたしたちはどのタイプのクリスチャンでしょうか。

生き生きとしたクリスチャンとして歩めるようにいつも新鮮な御言葉を蓄え、用いることができますように。

『 主の教えを喜びとし昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は水路のそばに植った木のようだ。時がくると実がなりその葉は枯れない。その人は何をしても栄える(詩篇)』

(小山晶子牧師夫人)

ネヘミヤ記 8:13-18

「神のみおしえの書は、最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めにしたがって、きよめの集会が行われた。」(8:18)

祭りの間、仮庵の中に住まなければならない。」(14節)という仮庵の祭りは、今もユダヤ人が大切にしている祭りの一つです。

しかし、バビロン捕囚まで、疎かにされてきたということが言及されます。

レビ記には仮庵の祭りを祝う理由をこのように述べています。

「これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。」(23:43)

つまり、神の御業を思い出すためです。

残念ながら人は神の御業を忘れやすい傾向があります。

毎週の主日礼拝を守ることを疎かにすることがどんな結果をもたらすかイスラエルの民から学ぶ必要があります。

神の御言葉に耳を傾け、神の御業を思い起こし、賛美をささげる主の日。

共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ネヘミヤ記 8:1-12

「彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。」(8:8)

学者エズラはモーセの律法の書を持ってきました。

帰還したユダヤ人たちは、生きることに精一杯で、モーセも十戒も忘れていました。

エズラは聖書からはじめました。

人々は聖書を通して、自分たちが誰なのか、どこから来て、どういう存在なのか聞きました。

しかし、問題がありました。

過去を見失っていた民は、言語も失っていました。

イスラエルの民はアラム語で育っていたのです。

それで、エズラがヘブル語で聖書を読むと、13人のレビ人たちがその箇所の意味を説明しました。

翻訳しただけでなく「意味を明らかにしながら読み上げました。それで「民は読まれたことを理解した。」

13人のレビ人たちは、エズラの学校で訓練された弟子たちだったと考えられています。

このように神学校などで集中して聖書を学び、訓練を受けた伝道者を育てることは大切なことです。

ネヘミヤ記 7:61-72

「そのほかの民の献げたものは、金二万ダリク、銀二千ミナ、祭司の長服六十七着であった。」(7:71)

5章では、ネヘミヤ自身がどれだけ捧げてきたかが記されていましたが、7章では、ネヘミヤ以外にも捧げていた帰還者たちがいたことが記されています。

工事のために、また、工事資金として一族の頭の何人かが捧げ物をしたことも記録されています。

一人一人、神が与えてくださった財産を喜んで捧げることによって、エルサレムの城壁が再建されていたことが分かります。

神の国は、このようにこの地に現されていきます。

だから聖書は言います。

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」(2コリント9:7)

ネヘミヤ記 7:5-60

「私の神は私の心に示して、私に有力者たちや、代表者たちや、民衆を集めて、彼らの系図を記載させた。私は最初に上って来た人々の系図を発見し、その中に次のように書かれているのを見つけた。」(7:5)

ネヘミヤ書の特徴は、彼の祈りと行動が織り交ぜられていることです。

ネヘミヤは祈りの人であると同時に、行動の人でした。

「私の神は私の心に示して」とネヘミヤが告白しているように、祈りの中で神は私たちの心に示してくださいます。

ネヘミヤは示されたことを行動に移しました。

これは、旧約聖書だけの話ではありません。

聖書は言います。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

神は私たちにうちに働いて思いを与えてくださいます。

そして、私たちが行動に移すとき、神の御業がこの地に行われます。

ネヘミヤ記 6:15-7:4

「私たちの敵がみなこれを聞いたとき、周囲の国々の民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(6:16)

6章を見ますと、ネヘミヤに執拗に悪魔のような攻撃が襲いました。

ネヘミヤは彼らに対抗し、彼らの口車に乗りませんでした。

サタンの意味は、「告発者、責める者」です。

サタンは私たちの弱い所、失敗、私たちが「もうダメだ」、「私にはできない」と落ち込むように責めるのです。

しかし、メッセージ訳では16節の後半部分をこのように訳しています。

「彼らはこの働きの背後に神がおられたことを知った。」

私たちの背後には神がおられます。

権力によらず、能力によらず、神の霊によって神の働きは成し遂げられます。

私たちのうちに良い働きを始められた方は、必ず、完成してくださいます。

この働きの背後に神がおられるからです。

ネヘミヤ記 6:1-14

「私には分かった。今、彼を遣わしたのは、神ではないと。彼がこの預言を私に伝えたのは、トビヤとサンバラテが彼を買収したからだと。」(6:12)

ネヘミヤは預言者の言葉に惑わされることはありませんでした。

神殿の聖所は祭司だけが入ることが許されていました。

預言者と呼ばれる人であったとしても、神の言葉と矛盾していることを言っているならば、その預言者は神からではありません。

同じように、聖書と矛盾することを語る人は神からではありません。

私たちは惑わされないためにも聖書に精通する必要があります。

このような状況でもネヘミヤの心が守られたのは、常に祈りに変えたからだと思われます。

ネヘミヤは祈りました。

「神様。トビヤ、サヌバラテ、女預言者ノアデヤ、その他の預言者の罪を、一つ残らず覚えていてください。彼らはあの手この手で、私の気持ちをくじこうと謀りました。」(6:14LB)

祈りに変えることができますように。

ネヘミヤ記 5:14-19

「私の神よ。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」(5:19)

ネヘミヤはユダの総督として働きましたが、総督としての報酬を受けませんでした。

また、彼は威張り散らすこともしませんでした。

彼の動機は権力でも金でもなかったからです。

それでは、彼の動機はなんだったのでしょうか。

ネヘミヤは祈りました。

「神様、この民に対して私のしたことをお心に留め、私を祝福してください。」(5:19LB)

彼が求めたのは神からの報酬でした。

使徒パウロもそうでした。

彼はこの地上での人生が終わる直前に、このように書き送りました。

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:7,8)

ほんの少し

ほんの少しだけ秋めいてきました。

朝夕の風が涼しく感じられ、そこに秋の虫の声も加わり猛暑を振り返る余裕も出てきた今日この頃。

ここからはクリスマスシーズン、年末まで一気に駆け抜ける感じもしますが、一つ一つの教会の働きを丁寧に行っていけるようお祈りいただければ幸いです。

ところで、今月最後の日曜日(9/29)午後、ホルン奏者の宮田四郎さんが伝道コンサートをしてくださることを皆さまご存知でしょうか。

昨日申し込み状況をチェックしたらなんとまだ一名しか(しかも他教会の方)名前がありませんでした。

8月は暑すぎて、または忙しすぎて考えられなかったという方もいらっしゃると思います。

入り口にチラシがたくさんありますのでご家族友人知人をお誘いいただきふるってご参加ください!

そういえば昨年の秋の伝道コンサートは岩渕まことさんご夫妻が来てくださいましたね。

多くの方の協力と祈りの支えがあってこの教会がこの地に存在しているのだと思います。

誰かが福音を伝えてくれたから、今私たちがここにいるのです。

誰かのために私たちも福音を伝える者になりましょう。

(小山晶子牧師夫人)