ネヘミヤ記 11:1-9

「民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな祝福した。」(11:2)

エルサレムを1節で「聖なる都」と呼んでいます。

旧約聖書で「聖なる都」という表現は、この他、18節と、イザヤ書48:2、52:1、そして、ダニエル書9:24の5箇所しかありません。

エルサレムは「聖所」、神殿がありましたから、「聖なる都」と呼ばれました。

しかし、ネヘミヤの時代、エルサレムには十分な住民がいませんでした。

それで、民の指導者たちのほか、くじを引いて、10分の1の民を住むようにしました。

しかし、「自分から進んでエルサレムに住もうとする人々」がいました。

「聖なる都」のために進んで犠牲を払う人たちがいたということです。

聖書は言います。

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」(1コリント9:7)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ネヘミヤ記 10:32-39

「このようにして私たちは、自分たちの神の宮をなおざりにはしない。」(10:39)

イスラエルの民が誓った誓いの一つは、

「自分たちの神の宮をなおざりにはしない」

ということでした。

使徒パウロは、

「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(1コリント3:16)

と言いました。

ですから、教会は神の宮です。

教会には、見えない普遍的な教会と、見える地域教会の両面があります。

見えない普遍的な教会だけでなく、自分が導かれ、属している見える地域教会をなおざりにしないことが大切です。

神が遣わされたその神の宮で、主への礼拝が捧げ続けることができるように、私たちは協力し合うことが求められています。

そのようにして、神の栄光はこの地にあらわされていきます。

ネヘミヤ記 10:1-31

「このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌い手、宮のしもべたち、また、諸国の民と関係を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、彼らの親類のすぐれた人々と歩調を合わせつつ、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行うという、次のような、のろいの誓いに加わった。」(10:28,29)

ネヘミヤ記は、第二神殿時代のユダヤ人にとって、律法の朗読、そして、律法の朗読に民が応答することがどれほど重要になったかが描かれています。

ここでは、「私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行うという・・・のろいの誓いに加わった」と言います。

「すべて理解できるまでになった者」、すなわち、神との関係は指導者たちだけではなく、すべての人に関わるものです。

一人一人が、神との関係を築く必要があるということです。

ネヘミヤ記 9:32-38

「私たちに降りかかったすべてのことにおいて、あなたは正しくあられます。」(9:33)

捕囚が終わったと人々は考えていませんでした。

ですからレビ族は祈ります。

「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。私たちが実りと良い物を食べられるようにと、あなたが先祖に与えてくださった、この地で。ご覧ください。私たちは奴隷です。私たちの罪のゆえに、この地の豊かな産物は、あなたが私たちの上に立てられた王たちのものとなっています。彼らは私たちのからだを支配し、家畜も彼らの思いのままです。私たちは大きな苦しみの中にいます」(9:36,37)

この時、彼らはペルシャの支配下にあり、この後、ギリシャ、シリア、ローマの支配下に生きることとなります。

捕囚は申命記30章にあるように罪の呪いの結果であり、捕囚の終了は罪の赦しを意味します。

イエス・キリストの十字架の死と復活は、捕囚の終了、罪の赦しをもたらした神の約束の成就でした。

ネヘミヤ記 9:19-31

「しかし、あなたはその大いなるあわれみにより、彼らを滅ぼし尽くすことはせず、お見捨てにもなりませんでした。あなたは、情け深くあわれみ深い神です。」(9:31)

レビ族は、神のご性質に強調点を置いて祈っています。

なぜなら、それがイスラエルが存続することができている唯一の理由だと考えていたからだと思われます。

使徒パウロもこのように言っています。

「私たちが逃れる道もなく、行き詰まっていた時、キリストはおいでになり、何のとりえもない、私たち罪人のために死んでくださいました。たとえ私たちが良い人間であったとしても、だれかが自分のために死んでくれるなどとは考えてもみなかったでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であった時、神はキリストを遣わしてくださいました。そのキリストが私たちのために死なれたことにより、神は私たちに大きな愛を示してくださったのです。」(ローマ5:6-8LB)

神はあわれみ深い神です。

ネヘミヤ記 9:9-18

「あなたはシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことのみおしえ、良き掟と命令を彼らにお与えになりました。」(9:13)

レビ族の祈りは、これまで神が何をしてくださったかということに及びます。

紅海の海を分けたこと、荒野を導かれたこと、律法を与えられたことが語られます。

しかし、彼らの応答はひどいものでした。

「しかし私たちの先祖は高慢で、頑固で、神様の戒めに耳を傾けようとはしませんでした。彼らは反抗的で、あなたが起こしてくださった奇跡を何とも思いませんでした。」(16,17節LB)

それでもレビ族は神に目を向けて祈ります。

「あなたは赦してくださる神です。いつも人々を赦そうとしてくださり、恵みに富み、思いやり深く、すぐにお怒りになることのないお方です。あなたは私たちの先祖をお見捨てにはなりませんでした。」(17節LB)

神の恵み、キリストの十字架を見上げて祈ることができることを感謝します。

ネヘミヤ記 9:1-8

「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象を、地とその上のすべてのものを、海とその中にあるすべてのものを造られました。あなたはそのすべてを生かしておられます。天の万象はあなたを伏し拝んでいます。」(9:6)

イスラエルの回復は、神の御言葉を聴き、悔い改めることから始まりました。

「彼らはそれぞれ所定のところに立って、昼の四分の一は、彼らの神、主のみおしえの書を朗読し、次の四分の一は、彼らの神、主に告白をして礼拝した。」(3節)

そして、レビ族が祈りを導きました。

祈りは、賛美の言葉に続いて、神がどのようなお方であるかを告白するものでした。

それは、教会の歴史の中で告白されてきた使徒信条の出だしを思い出させます。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」

私たちは全地万物を創造し、治められる、父、子、聖霊の唯一なる神に祈りを捧げています。

生もみじ 

先日広島での仕事から戻ってきた長男がお土産に「生もみじ」を買ってきてくれました。

しっとりもっちりとした生地に甘さ控えめのあんこが入った新しいタイプのもみじ饅頭で、調べてみたら米粉を使い10年かけて開発した広島新銘菓だそうです。

最近「生どら焼き」や「生カヌレ」「生チョコレート」など「生」という言葉がつくお菓子が増えましたが一般的には生菓子の定義は水分量が30%以上のもの、ということだそうです。

ところで、これをクリスチャン生活に当てはめてみるとどうでしょう。

30%以上御言葉に導かれている「生クリスチャン」、10〜30%ぐらいは御言葉を土台としている「半生クリスチャン」、ほとんどもしくは全く御言葉に生きようとしていない「干クリスチャン」わたしたちはどのタイプのクリスチャンでしょうか。

生き生きとしたクリスチャンとして歩めるようにいつも新鮮な御言葉を蓄え、用いることができますように。

『 主の教えを喜びとし昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は水路のそばに植った木のようだ。時がくると実がなりその葉は枯れない。その人は何をしても栄える(詩篇)』

(小山晶子牧師夫人)

ネヘミヤ記 8:13-18

「神のみおしえの書は、最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めにしたがって、きよめの集会が行われた。」(8:18)

祭りの間、仮庵の中に住まなければならない。」(14節)という仮庵の祭りは、今もユダヤ人が大切にしている祭りの一つです。

しかし、バビロン捕囚まで、疎かにされてきたということが言及されます。

レビ記には仮庵の祭りを祝う理由をこのように述べています。

「これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。」(23:43)

つまり、神の御業を思い出すためです。

残念ながら人は神の御業を忘れやすい傾向があります。

毎週の主日礼拝を守ることを疎かにすることがどんな結果をもたらすかイスラエルの民から学ぶ必要があります。

神の御言葉に耳を傾け、神の御業を思い起こし、賛美をささげる主の日。

共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ネヘミヤ記 8:1-12

「彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。」(8:8)

学者エズラはモーセの律法の書を持ってきました。

帰還したユダヤ人たちは、生きることに精一杯で、モーセも十戒も忘れていました。

エズラは聖書からはじめました。

人々は聖書を通して、自分たちが誰なのか、どこから来て、どういう存在なのか聞きました。

しかし、問題がありました。

過去を見失っていた民は、言語も失っていました。

イスラエルの民はアラム語で育っていたのです。

それで、エズラがヘブル語で聖書を読むと、13人のレビ人たちがその箇所の意味を説明しました。

翻訳しただけでなく「意味を明らかにしながら読み上げました。それで「民は読まれたことを理解した。」

13人のレビ人たちは、エズラの学校で訓練された弟子たちだったと考えられています。

このように神学校などで集中して聖書を学び、訓練を受けた伝道者を育てることは大切なことです。