ガラテヤ 1:1-10

「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」(1:10)

私たちは本質的な福音メッセージを、人の歓心を買うために曲げてはいけません。

どんなに人々が拒絶しようとも、受けが悪くても、イエス・キリストの十字架の御業だけが、人を救うことができるということを伝える必要があります。

しかし、フィー教授はこう言います。

「より大きな危険は、不必要に人々が背を向けるような方法で福音を提示し、この箇所を自分の愚かさを正当化するために用いようとする誘惑である。」

要するに、「別に人の歓心を買おうとしていないから」と、教会が人々に福音を伝える工夫を怠ってしまうならば、それは悲しいことです。

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」です。

ホセア書 14:1-9

「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。」(14:9)

主の道は「平ら」というのを、協会共同訳では「まっすぐ」と訳しています。

英語の聖書では、「正しい」と訳しています。

つまり、「主の道」こそ、歩むべき道ということです。

ただ、「主の道」を歩むかどうかは、私たちの選択だというのです。

主の道は「人生の道」です。

「道」と訳された「デレク」という単語は、元来、道徳的な振る舞いなどの意味があります。

生き方、生活の仕方という意味があります。

聖書は、私たちの信仰だけではなく、生活の規範でもあります。

主の道はまた「いのちの道」です。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。

私たちが歩む主の道、私たちが伝えなければならい主の道、それは、「わたしが道である」と言われた、イエス・キリストです。

ホセア書 13:1-16

「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。」(13:4)

主なる神はイスラエルの民がエジプトにいた時から今に至るまで、変わらずに

「あなたの神、主である」

と言われます。

神の愛は永遠の愛であり、神の信実は変わりません。

ところがイスラエルの民は、必要が満たされると高慢になってしまい、主なる神を忘れてしまいました。

主は言われます。

「しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。」(6節)

必要がある時は謙遜に神を求めていたのに、必要が満たされると、手のひらを返したように神の恵みを忘れて、あたかも自分で切り開いてきたかのように振る舞う。

このようなイスラエルの姿は、他人事ではありません。

神の恵みを忘れることなく、謙遜に神を神として生きていくことができますように。

ホセア書 11:12-12:14

「ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力で神と争った。」(12:3)

「その力」とは、「彼の力」、「人間的な力」という意味です。

新共同訳では、

「力を尽くして神と争った。」

聖書協会共同訳では、

「力の限り神と闘った」

と訳していますが、

「一生懸命あがいてみた」

ということだと思います。

岩波訳では、驚くことに、

「その富をもって」

と訳していますが、

「裕福になった時」

という意味だと思われます。

口語訳では、

「成人したとき」

と訳してますが、成長して、裕福になって、

「神なしでも自分でできる」

と思い上がっていた時に、神と格闘したという意味にもとることができます。

いずれにせよ、共通点は、

「自分の力に依存するか、神の存在を認めるか」

ということです。

ヤコブの問題は、

「神に頼らなくても、自分で何でもできる」

ということでした。

彼の生き方はまさに自分勝手、自分中心でした。

「自分は神が必要な存在だ」

と認められるかどうかが、私たちの人生を左右します。

ホセア書 11:1-11

「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(11:8)

アデマとツェボイムは、ソドムとゴモラと共に滅びた町のことです。

神はそれらの街のように見捨てることはできないと言います。

あわれみ深い神は言われます。

「わたしの心は叫んでいる。 何としても、あなたたちを助けたい。」(LB)

神は私たちが方向転換できるように、機会を与えてくださいます。

「主は獅子のようにほえる。まことに主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。」(10節)

神の愛、神の驚くばかりの恵みは、私たちの理解を超えています。

ああ、すがすがしい

秋ですね。

長い長い夏がようやく終わったと感じられる気候になりました。

この夏は台所に立つのが辛く感じるくらいでしたが、最近はちょっとお菓子でも焼こうかしらという気持ちになってきました。

アニーがお菓子の材料をいろいろおいていってくれたので、それを使ってチョコバナナケーキを焼いてみました。

おいしくできたのでちょっとづつ食べています。

気づけばもう10月なかば。

あと3週間もすればオープンチャーチです。

今回は香港チームの方々が一緒に盛り上げてくださる予定です。

秋本ビル時代に始まった「秋のバザー」から数えると25回を超える教会行事(四半世紀ですね)となります。

少しづつ形を変えながらも、地域に開かれた教会として人々が入りやすい場所としてオープンチャーチがこれからも用いられていくことを祈ります。

11月号の「いのちのことば」をみなさまの週報ボックスにお入れしています。

今回はわたしがリラのページの執筆をしましたのでぜひご一読くださいませ。

主の栄光だけが光り輝きますように!

(小山晶子牧師夫人)

ホセア書 10:1-15

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」(10:12)

エレミヤ書に同じように「耕地を開拓せよ。」(4:3)という命令があります。

エレミヤ書では、続けて「茨の中に種を蒔くな。」とあります。

すなわち、表面的ではなく、真の悔い改めを求めているということです。

「今が主を求める時だ。」

という発言は、明らかに主なる神以外に助けを求めていたことを示唆しています。

続く13節にこのように記されています。

「それはあなたが自分の力に、自分の勇士の数に拠り頼んだからだ。」

「自分の力」と訳された単語は「私の道」「私のやり方」という意味です。

聖書が言う罪とは自分中心の生き方です。

自分中心から神中心に方向転換をして、主なる神を求めること、その時、主は来られると言います。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ホセア書 9:10-17

「私の神は彼らを退ける。彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは国々の間で、さすらい人となる。」(9:17)

捕囚の原因、それは、

「彼らが神に聞き従わなかったからだ。」

と聖書は言います。

神に従うことを第一としなかったからです。

預言者サムエルは、神の言葉に従わなかったサウル王にこのように言いました。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(1サムエル15:22,23)

どんな時でも、神のみ声に聴き従うことを優先させることができますように。

ホセア書 9:1-9

「彼らは主の地に住むことはない。エフライムはエジプトに帰り、また、アッシリアで汚れた物を食べる。」(9:3)

申命記28章以下に記された祝福と呪いの契約が示す通り、北イスラエルの民が捕囚されることがここで宣告されています。

イスラエルの民がエジプトの地で奴隷であったように、アッシリアの地で奴隷となることが宣告されました。

それは、北イスラエルの民が神との契約を破り、神に背いて異教の神々を礼拝したからであることが明言されています。

要するに、捕囚は罪の結果ということです。

それはつまり、捕囚からの帰還は罪の赦しということです。

ただし、捕囚状態はクロス王の勅令によって民が帰還を果たした後も続いていました。

本当の意味の捕囚の終わりは、イエス・キリストが「ユダヤ人の王」として十字架にかかられた時に起こりました。

「罪の赦し」は、イエス・キリストが「ユダヤ人の王」として十字架にかかられるまでもたらされることはありませんでした。

ホセア書 8:1-14

「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののように見なす。」(8:12)

北イスラエルの民は言いました。

「わが神よ、私たちイスラエルは、あなたを知っています」(2節)

この発言に彼らの問題が凝縮しています。

彼らは自分は悪くないと考えていたということです。

自分たちは正しいと考えていたということです。

そんなイスラエルの民に、神は

「わたしは彼らのためにわたしの啓示を詳細に書き記す。彼らはそれを読めないふりをする。」(12節MSG)

と、言われます。

聖書は神の啓示です。

神は私たちに詳細に神の啓示を書き記してくださいました。

私たちは聖書を読み、神の御言葉に従って生きるように求められています。

北イスラエルの民のように、わかっているふりをせずに、謙遜に、神の御言葉を学ぶ者となることができますように。