ホセア書 7:1-16

「イスラエルの高慢はその顔に表れている。彼らは、自分たちの神、主に立ち返らず、このすべてがあっても、主を尋ね求めない。」(7:10)

北イスラエル王国の問題は高慢でした。

結局のところ、神を信頼しようとはせず、自分のやり方の方が、神のやり方よりも優れていると考えていたのです。

そのため、神に立ち返って神を尋ね求めることもしませんでした。

そもそも、サタンがエバを誘惑した言葉は「あなたがたが神のようになり」でした。

人の罪の根底には、この神よりも優れていると考える高慢さがあります。

そんな神を神として認めないイスラエルの民の姿を、

「片面しか焼けていないパン」(8節)

だと言います。

表面的、形式的に神に仕えているように見えても、本気で神を求め、神に信頼していない。

聖書は言います。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:5)

ホセア書 6:1-11

「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(6:3)

預言者ホセアは、罪に満ち、裁きを宣告されたイスラエルの民に呼びかけます。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」(1節)

神のご計画は災いではありません。

私たちが悔い改めて、神に立ち返るならば、そこには癒しがあり、回復があります。

神の計画は将来と希望を与えることです。

ですからホセアは言います。

「私たちは神を学ぶ準備ができている。神を知ることを熱望している。夜明けのように確実に、神は毎日確実にやって来る。大地をリフレッシュする春の雨のように神は雨のようにやって来る。」(3節MSG)

大切なことは、主を知ることを切に追い求めることだと聖書は言います。

日々、聖書を学び、祈ることから始まります。

ホセア書 5:1-15

「彼らは、自分の悪行を捨てて自分の神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあり、彼らが主を知らないからだ。」(5:4)

主を知らず、姦淫のゆえに汚れてしまった北イスラエルに裁きが下されることが宣告されています。

「姦淫の霊」は、主なる神から人々を引き離そうとする悪霊の働きです。

自分の悪行を捨てて神に立ち返ることを妨げる悪霊の働きです。

「主を知る」という意味は、単なる知識として知るという意味ではありません。

主との人格的交わりによって得ることができる体験的な認識です。

それは、今、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、悔い改めてイエス・キリストを信じる者が、聖霊様によって得ることができる体験的な認識です。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

寒いけど暑い

なんだか身体が変な感じ。

急に寒くなったのでエアコンを切って過ごそうとすると汗が出るし、つけると冷えてくるし、冷えたと思ったら次の瞬間ホットフラッシュ。

今までも一気に季節が進んで体調がおかしくなることはありましたが、いやはや困ったものです。

気を抜かないように警戒しながら過ごしていますが夏前からの忙しさもあり自分の身体が信用できません。

早く体温(?)が安定してくれるといいのですが、、、。

皆さんも異常な夏の暑さをようやく乗り越え、疲れを覚えておられることと思います。

無理せざるを得ない場面もあると思いますが日々守られますよういつも名前を挙げてお祈りしています。

神様は24時間365日いつでもわたしたちの祈りに耳を傾けてくださいます。

「今は忙しいから後でアポイントとって」とは決しておっしゃいません。

本当に私たちは幸いな者だと思います。

聖書には

「主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」

と記されています。

この御言葉の真実を体験する1週間でありますように。

(小山晶子牧師夫人)

ホセア書 4:11-19

「悟ることのない民は滅びに落ちる。」(4:14)

イスラエルの国はソロモン王の後、北と南に分裂しました。

ホセアは北イスラエル王国に遣わされた預言者でした。

南ユダ王国とは違って北王国はすぐに主なる神を離れて偶像礼拝に陥ってしまいました。

北イスラエルの民は良識を失い、悟ることなく快楽に堕ちていきます。

ここでは特に神殿娼婦の類の問題が指摘されています。

このような行為の意図は、豊穣の神々であるバアルとアシェラが喜ぶことを行って豊作を願うという異教の習慣でした。

それは、社会生活を壊す行為でした。

結局のところ、「悟ることのない民は滅びに落ちる。」とあるように、根本的な問題は神の御言葉に対する理解がなかったことにあると聖書は言います。

謙遜に聖書の御言葉に耳を傾け、神のみこころを理解することができますように。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ホセア書 4:1-10

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。」(4:6)

神のことばを教えるべき祭司たちが、神のことばを教えなかったがゆえに滅ぼされると言います。

教会も、この世の人が受け入れやすいものを語り、神のことばを教えなくなるならば、同じ過ちを繰り返すことになります。

ですから聖書は命じます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:2-4)

ホセア書 3:1-5

「主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」」(3:1)

ゴメルはホセアの元を去って、自堕落な生活を繰り返し、結局は奴隷として売られるようになります。

ホセアは、驚くことに、そんなゴメルをお金を支払って買い戻します。

それは、神がホセアにこう命じたからです。

「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」

ここに、神の愛が現されています。

神の愛は、それでもなお、こんな私たちを愛してくださる、永遠の愛です。

ホセア書 2:14-23

「それゆえ、見よ、わたしは彼女を誘い、荒野に連れて行って優しく彼女に語ろう。」(2:14)

神は私たちを口説いて、荒野に連れて行き、語られるお方であると聖書は言います。

人は自我が砕かれ、「自分中心」から「神中心」に変えられる必要があるからです。

私たちが直面する様々な試練は、神が私たちを口説いているのかもしれません。

神が私たちを口説いて行く場所が荒野であるというのはあまり耳に心地良い話ではありません。

しかし、そこでなければ聞くことができない神からの優しい語りかけがあります。

もちろん、荒野に行くことが神のみこころではありません。

続けて神は言われます。

「わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。その場所で彼女は答える。若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように。」(15節)

神は私たちに将来と希望を与えたいのです。

ホセア書 2:2-13

「しかし彼女は知らない。このわたしが、穀物と新しいぶどう酒と油を彼女に与えたのを。わたしが銀と金を多く与えると、彼らはそれをバアルに造り上げたのだ。」(2:8)

聖書は

「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」(1コリ10:26)

と言います。

ですから

「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」(1テモテ4:4)

イスラエルの民は神から与えられた神のもので偶像に仕えていました。

根本的な問題は霊的無知だと言いますが、それは、弁解の余地のないものだと聖書は言います。

「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ1:9-20)

全ての人は神に立ち返る必要があります。

ホセア書 1:1-2:1

「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。」(1:10)

ホセアが活動した30年ほどの間に、イスラエルの国は、王朝が4度も代わり、政策もアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。

そんな中、イスラエルの民は、豊かさを約束する、バアル神へ傾倒していきました。

ホセアは、預言活動の初期、不道徳な女性、ゴメルと結婚し、その子どもたちに不思議な名前をつけるように命じられます。

「イズレエル」は場所の名前で、王朝の滅亡を暗示しました。

「ロ・ルハマ」の「ロ」は否定で、「ルハマ」は「憐れみ」で、「憐れみはない」という意味です。

「ロ・アンミ」の「アンミ」は「私の民」で、「私の民ではない」という意味です。

これは、偶像礼拝をやめないイスラエルの民を神が捨てられることを示唆する内容でした。

しかし、神は懲らしめの後、謙らされた後に、「生ける神の子ら」となると言います。

人は、自我が砕かれることを通して神の民になります。