ホセア書 4:1-10

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。」(4:6)

神のことばを教えるべき祭司たちが、神のことばを教えなかったがゆえに滅ぼされると言います。

教会も、この世の人が受け入れやすいものを語り、神のことばを教えなくなるならば、同じ過ちを繰り返すことになります。

ですから聖書は命じます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:2-4)

ホセア書 3:1-5

「主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」」(3:1)

ゴメルはホセアの元を去って、自堕落な生活を繰り返し、結局は奴隷として売られるようになります。

ホセアは、驚くことに、そんなゴメルをお金を支払って買い戻します。

それは、神がホセアにこう命じたからです。

「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」

ここに、神の愛が現されています。

神の愛は、それでもなお、こんな私たちを愛してくださる、永遠の愛です。

ホセア書 2:14-23

「それゆえ、見よ、わたしは彼女を誘い、荒野に連れて行って優しく彼女に語ろう。」(2:14)

神は私たちを口説いて、荒野に連れて行き、語られるお方であると聖書は言います。

人は自我が砕かれ、「自分中心」から「神中心」に変えられる必要があるからです。

私たちが直面する様々な試練は、神が私たちを口説いているのかもしれません。

神が私たちを口説いて行く場所が荒野であるというのはあまり耳に心地良い話ではありません。

しかし、そこでなければ聞くことができない神からの優しい語りかけがあります。

もちろん、荒野に行くことが神のみこころではありません。

続けて神は言われます。

「わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。その場所で彼女は答える。若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように。」(15節)

神は私たちに将来と希望を与えたいのです。

ホセア書 2:2-13

「しかし彼女は知らない。このわたしが、穀物と新しいぶどう酒と油を彼女に与えたのを。わたしが銀と金を多く与えると、彼らはそれをバアルに造り上げたのだ。」(2:8)

聖書は

「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」(1コリ10:26)

と言います。

ですから

「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」(1テモテ4:4)

イスラエルの民は神から与えられた神のもので偶像に仕えていました。

根本的な問題は霊的無知だと言いますが、それは、弁解の余地のないものだと聖書は言います。

「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ1:9-20)

全ての人は神に立ち返る必要があります。

ホセア書 1:1-2:1

「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。」(1:10)

ホセアが活動した30年ほどの間に、イスラエルの国は、王朝が4度も代わり、政策もアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。

そんな中、イスラエルの民は、豊かさを約束する、バアル神へ傾倒していきました。

ホセアは、預言活動の初期、不道徳な女性、ゴメルと結婚し、その子どもたちに不思議な名前をつけるように命じられます。

「イズレエル」は場所の名前で、王朝の滅亡を暗示しました。

「ロ・ルハマ」の「ロ」は否定で、「ルハマ」は「憐れみ」で、「憐れみはない」という意味です。

「ロ・アンミ」の「アンミ」は「私の民」で、「私の民ではない」という意味です。

これは、偶像礼拝をやめないイスラエルの民を神が捨てられることを示唆する内容でした。

しかし、神は懲らしめの後、謙らされた後に、「生ける神の子ら」となると言います。

人は、自我が砕かれることを通して神の民になります。