黙示録 6:1-17

「神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(6:17)

「神と子羊の御怒りの、大いなる日」は、この世の終わりです。

イエス様が再び来られる前の大患難時代のことです。

その前に、キリスト者は一挙に引き上げられます。(1テサロニケ4章)

戦争や飢饉、地震などの自然災害など、今、すでに起こっている感じもしますが、その時は、今の比ではないのだと思われます。

「だれがそれに耐えられよう」は、直訳すると、「誰が立てるか」です。

ユージーン・ピーターソンは、天使たちは立てると言います。

7章で天使たちは、「地の四隅に立ち」(1節)とあります。

また、御座と子羊の前に立っていました。(11節)

天使は神のメッセージを伝えるものであり、悪を恐れることはありません。

悪は彼らを失望させることはできません。

悪は彼らを無力にすることはできません。

私たちの世界が崩れ落ちるように感じる時、天使たちは私たちのモデルです。

黙示録 5:8-14

「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」(5:8)

四つの生き物と24人の長老が何を意味するか、聖書学者の間でも意見が分かれています。

ここで大事なポイントは、この香が聖徒たちの祈りということです。

聖徒とは、クリスチャンのことです。

人はただ、キリストのゆえに聖徒とされます。

すべてのクリスチャンの祈りは、香として天に立ち昇り、まだ、実現していない祈りが天に蓄えられているということです。

最終的に、この香が8章で地に振りまかれて、結果としていくつかのことが起こります。

これは、個人のレベルで適用できると思います。

家族のため、友のため、私たちが祈り続けるならば、その祈りは香のように天に立ち昇り、蓄えられます。

そして、私たちは神の時に、その結果を見ることができるのです。

黙示録 5:1-7

「しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。」(5:3)

すべての人は罪を犯したので、誰も神のご計画を実行に移すことができる人はいません。

旧約聖書を見ると、神はアブラハムを選び、イスラエルの民を選んだことがわかります。

しかし、残念ながら、イスラエルの民は、神の民としての使命を全うすることはできませんでした。

彼ら自身が問題となってしまったのです。

使徒ヨハネは「激しく泣いていた」とありますが、確かに、旧約聖書だけでは、絶望しかありません。

しかし、5節にこのように記されています。

「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」

イエス・キリストは、神の子羊として十字架にかかり死ぬことにより、神のライオンとして勝利されました。

黙示録 4:5-11

「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」」(4:8)

使徒ヨハネは、生ける神のおられる部屋、神のリビング・ルームに入りました。

そこは、賛美に満ち溢れた場所でした。

ここに出てくる4つの生き物については、ししは獣の代表、雄羊は家畜の代表、人間は被造物の代表、わしは鳥類の代表で、それぞれが神を賛美している様子は、被造物全体が神を賛美していることをあらわしていると言われています。

ここで、「聖なる」ということばが、三回続いていることに実は意味があります。

へブル語では、最上級を表すときは、単語を2回繰り返します。

つまり、三回繰り返すのは特殊なケースで、これは、三位一体を現しています。

父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三つにまして一つなる神様なので、三回続いているのです。

黙示録 4:1-4

「その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」」(4:1)

使徒ヨハネはこの黙示録を書いたとき、エーゲ海のパトモス島という孤島に島流しにされていました。

共にいた仲間のほとんどは、迫害され、殺されました。

彼もまた信仰のゆえに、迫害され、今、島流しにされていました。

あるクリスチャンたちは信仰のゆえに、ライオンのえさにされてしまいました。

彼らは隠れて、集まっていました。

使徒ヨハネが落ち込む理由はたくさんありました。

しかし、1節を見ますと、使徒ヨハネはここで天国に上げられます。

私たちが知っておくべき二つの現実があります。

一つは、この地上における現実です。

もう一つは、天国の現実です。

だから、聖書は言います。

「上にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:2)

黙示録 3:14-22

「また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。」(3:14)

「アーメンである方」は不思議な表現です。

「アーメン」は旧約聖書が書かれたヘブル語で「その通りです。本当です。」という意味があります。

祈りの最後に「アーメン」と言うのは「本当にその通りです」という気持ちを表します。

イザヤ書に「アーメンの神」という表現が使われています。

「この地で祝福される者はまことの神(アーメンの神)によって祝福され、この地で誓う者はまことの神(アーメンの神)によって誓う。」(イザヤ65:16)

ですから、この地で祝福される者は、「アーメンの神」によって祝福されます。

人は「アーメンである方」、イエス・キリストによって祝福されます。

イエス・キリストがすべての罪の呪いを私たちの代わりに背負われて、十字架の上で死んでくださったからです。

バイブルスクール

ユース対象のTPKFイーストワンデイバイブルスクールが昨日町田純福音教会で行われました。

生粋のユースは僅か2人、あとは大人25名ほどだったでしょうか。

小山牧師は聖書解釈学、わたしは中間時代の講義を担当しました。

聖書はわたしたちクリスチャンにとって信仰と生活の唯一の規範ですから、クリスチャン一人一人がもっともっと聖書の御言葉を学ぶことへの意欲、飢え渇きが起こることをいつも祈らされています。

ところでわたしが講義した中間時代は旧約聖書と新約聖書の間、約400年の期間のことを指します。

厳密に言えばマラキ書からバプテスマのヨハネが登場するまでということになります。

この400年の間にイスラエルはアッシリア、バビロニア、ペルシア、マケドニア、エジプト、シリア、そしてローマと次々と大国に支配され真っ暗闇を歩いているような状況でした。

救い主を切望し祈り続けていたその時に、暗闇を引き裂く光であるイエス様は誕生します。

神様は沈黙しておられたのではなく、その「時」のための準備をしておられたことを、歴史を通して今私たちは見ることができるのです。

(小山晶子牧師夫人)

黙示録 3:7-13

「また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。」(3:7)

門を開くも閉じるも、イエス様次第であり、人がこじ開けるものではないと言います。

しかし、続けてこのように言われます。

「わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」

「少しばかりの力」とは、キリストの前に、自分の無力さを認め、キリストを求める信仰の力です。

「わたしのことばを守り」とあるように、自分に対する神の目的を求めることです。

そして、「わたしの名を否まなかったから」とあるように、イエス様の働きを否定しないことです。

今日は主の日。感謝礼拝です。共に主なる神に感謝と礼拝を捧げましょう!

黙示録 3:1-6

「また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」(3:1)

サルディスは山岳地帯にある小アジア最大の町でした。

切り立った岩壁に囲まれていたため、難攻不落の町だと言われました。

ところが、それがかえって罠となりました。

自信過剰になり、防護を怠ったのです。

サルディスの教会も、不道徳や、間違った教えの問題はありませんでした。

しかし、「名ばかりで、実は死んでいる」状態だったのです。

ビリーグラハムがある神学者にこんな質問をしました。

「今日のアメリカの教会で、一番の危険は何でしょうか」

彼はこう答えました。

「いのちを失った伝統です。正しいのですが、いのちがないのです。」

キリストとの人格的な関係を築こうとしなければ、「名ばかりで、実は死んでいる」と、イエス・キリストは言われます。

黙示録 2:18-29

「しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」(2:24)

ティアティラの教会の問題は預言者だと自称する「イゼベル」の教えでした。

それは、「サタンの深み」、「深い真理」(LB)です。

イゼベルの話は、「よくわからないけど、きっとすごい話をしているに違いない」と思わせるような話だったのだと思います。

しかし、そのような「深い教え」には注意が必要です。

マクグラス教授は警告します。

「十字架につけられたキリストの中心性を受け入れることのできないようなキリスト教はみな、『キリスト教』と言えるのかどうか、問い直さなくてはならないでしょう。キリスト教の関心は、神やイエス・キリストや、人間の性質や運命についてのでたらめな考えではなく、私たちが、イエス・キリストの十字架において出会う神秘的な生きた神との格闘なのです。」