「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。」(22:3,4)
主の御顔を仰ぎ見るその日、「のろわれるものは何もない」と言います。
使徒パウロはこのように言っています。
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13:12)
この地上では、私たちには理解できないことがたくさんあります。
しかし、主の日に、私たちは知ることになります。
ですから、神は私たちが理解することではなく、信仰を求められます。
イエス様はおっしゃられます。
「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」(ヨハネ13:7)