黙示録 22:1-5

「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。」(22:3,4)

主の御顔を仰ぎ見るその日、「のろわれるものは何もない」と言います。

使徒パウロはこのように言っています。

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13:12)

この地上では、私たちには理解できないことがたくさんあります。

しかし、主の日に、私たちは知ることになります。

ですから、神は私たちが理解することではなく、信仰を求められます。

イエス様はおっしゃられます。

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」(ヨハネ13:7)

#ツタンカーメン

先日ミステリー・オブ・ツタンカーメンという体験型古代エジプト展に行ってきました。

場所はみなとみらいのアンパンマンミュージアムがあった施設です。

ただ、開館したばかりということもあるのでしょうか、現地に着くまで特に表示などもなく少々不安になりました。

が、本当に行って良かったです!

わたしは30年前実際に王家の谷のツタンカーメンの墓に行ったことがあるのですが現地と全く遜色ない、完全に再現された墓の内部に驚きました。

実際そこいる錯覚に陥ったというか、もう大興奮でした。

このエジプト展の物は全てレプリカなので正直どうかなと思っていたのですが、さすがスーパーレプリカ、写真では感じることのできないサイズ感を体験できることは非常に意味があると思いましたし、レプリカとはいっても細部にまでこだわって作り込んであるので見応えもあります。

ツタンカーメンの父親はアクエンアテンと言って古代エジプトで唯一宗教改革をして一神教にした人物です。

何らかの形でモーセの影響を受けたのではないかと考える学者もいて興味深い人物なのです。

なお、開催期間は1年間です。

(小山晶子牧師夫人)

黙示録 21:22-27

「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。」(21:22)

神殿とは、神の領域である天と、人が活動している領域である地が重なる場所でした。

天のエルサレムは、天と地が完全に重なっているので神殿は存在しないと言います。

神の栄光が輝いている天のエルサレムでは、太陽も月も必要としないと言います。

神殿のない世界、それは、罪を犯す前のアダムとエバがいたエデンの園がそうでした。

神の臨在がいつもエデンの園に満ちていたからです。

つまり、天のエルサレムにおいて、被造物は、最初に創造主なる神が意図したとおりの姿に回復するのです。

神は、私たちとのそのような親しい関係を、最初から望んでおられたのです。

天のエルサレムにおいて、完全な神の臨在を経験しますが、今、すでに、この世においても、私たちは神の臨在を体験することができます。

今日は主の日、主の臨在の中で、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

黙示録 21:9-21

「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。」(21:10)

エルサレムという都市が、天国のイメージとして用いられています。

今の時代、エルサレムが争いの象徴になってしまっていることを残念に思います。

しかし、それは、同時に私たちに良い教訓を与えているとも思います。

神が約束したのは、地上のエルサレムでなく、天のエルサレムであるということです。

つまり、この世にこだわり続けるならば、どんな麗しい都でさえも争いの象徴になっていってしまうということです。

ですから私たちは、天のエルサレムを求める必要があります。

使徒パウロは言いました。

「天にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」(コロサイ3:2)

黙示録 21:1-8

「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」(21:3)

私たちが行く新天新地の特徴は「神の幕屋が人々とともにある」ということです。

「幕屋」とは、イスラエルの民がエジプトを脱出し約束の地まで行く間に、宿営の中心地に置かれた、神を礼拝する所であり、神がモーセに会われた所です。

つまり、神の臨在、神の存在を意味しています。

神の存在がいつもそこにあるということです。

これは、どういうことかと言いますと、使徒パウロは、こう説明しています。

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13:12)

黙示録 20:11-15

「それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。」(20:14)

ハデスとは、「死後の世界全体」を指す言葉です。

その時、死も死後の世界もなくなるということです。

つまり、第二の死とは、永遠の刑罰を意味しています。

ここに大事なメッセージがあります。

それは、まだ、すべては終わっていないということです。

The best is yet to come. 

まだ、これからなのです。

サタンも死も、やがて、火の池に投げ込まれます。

彼らは負けるのです。

そして、キリストを信じる者、いのちの書に名が記されている者が勝利するのです。

イエス様は、使徒ヨハネを通して、この希望を与えられました。

一つ、はっきりしていることは、この世界は天国ではないということです。

イエス・キリストを信じる時、イエス・キリストとの関係の中で、天国を先取りすることができますが、その完全な状態に入れるのは、まだ、先の世界での話しです。

ですから、希望が必要です。

ルカ 2:1-14

「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」」(2:13,14)

天使たちは夜空を賛美で満たしました。

天使たちは、飼い葉桶に寝かせられたイエス様のために、ベッドを贈り物としてあげることもできたと思います。

もちろん天使ですから、イエス様のことを、よく知っていたはずです。

だから、天使たちは、賛美という贈り物を捧げたのです。

天使たちの行動が私たちに教えていることは、

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」

と、賛美という贈り物を神は喜ばれるということです。

イエス様も言われました。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ4:23聖書協会共同訳)

神が求めているのは礼拝者です。

ルカ 1:39-56

「マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、」(1:46)

このマリヤの歌は、ラテン語の最初のことば「マグニフィカト」(Magnificat)という呼び名で有名です。

ローマ帝国に支配され、隷属していたイスラエルの人々、貧困と飢えに苦しみ、革命を夢見ていた人々がいました。

当時の革命家たちは、「自分たちが行動を起こさなければ」という思いが強すぎて、神の力強い御業を見誤り、イエス様のことを認識することすらできませんでした。

しかし、まず、主を待ち望み、祈ることが大切です。

祈らなければ神のみこころに反する行動すら起こしかねないからです。

人はこう考えます。

「生まれる子どもは、やがて、武力によってローマ帝国の圧政からイスラエルの民を解放してくれる。」

しかしイエス・キリストは、ローマ帝国に捕らえられ、十字架につけられ、死に、葬られ、3日目によみがえることを通して、すべての人を、暗闇の力から解放してくださいました。

クリスマス、おめでとうございます!

本日19時より、キャンドルライトサービスを行います。ぜひ、お越し下さい。

ルカ 1:26-38

「マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」」(1:38)

天使ガブリエルは、マリアにイエスさまを身ごもることを伝えます。

驚いたマリアは言います。

「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。」

ガブリエルはマリアに言います。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」

「神にとって不可能なことは何もありません。」

マリアはどんなに不可能に見えても、神を信頼して、神に「はい」と従順しました。

神は私たちに理解することではなく、信仰を求められます。

神を信頼して、従うことを求められます。

そのようにして神の力はこの地に現されます。

聖書は言います。

「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです」(2歴代16:9)

今年最後のコンサート

先週木曜日、今年最後のリラコンサートがさいたま市で行われました。

さいたま市内にはキリスト教会が約70あるそうですが、そのうちの9教会が合同で行っているクリスマス集会で今年で34回目だそうです。

祈って準備をして来られたのだなあということが伝わってきて、歓迎されていることがよくわかりました。

怖いことですが祈って準備している集会、祈っていない集会はすぐわかります。

これはもちろんこの教会にも言えることですので、身の引き締まる思いです。

神様との関係がおざなりになっていることはわかってしまうというか伝わってきてしまうのです。

不安や恐れの状態にいる人は大抵の場合デボーションの時間が取れていません。

神様との平和がないからまだ進めない状態なのに、それでも自分の計画を進めようとするから結果不安しか残らないのです。

自分の思いを一方的に伝える幼いデボーションではなく、神様の御声を聖書を通して聴こうと努める大人のデボーションへと成長することができますように。

2024年もあと10日を切りました。

まずはこの一年守られたことを主に感謝したいと思います。

(小山晶子牧師夫人)