ヨハネ 1:29-42

「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)

子羊の規定は、出エジプトの時に、神がイスラエルの民に与えたものです。

エジプトの奴隷生活から、イスラエルの民を脱出させるために、神は十の災害をエジプトにもたらしました。

その最後の災いが、初子の死でした。

しかし、子羊の血を、家の門柱とかもいに塗った家は、滅す者が過ぎ越して行きました。

ここから過越(pass-over)の祭りが始まります。

イエス様が十字架にかかられたのも、この過越の祭りの時でした。

過越の祭りでは、この出エジプトの出来事を覚えて、子羊が屠られます。

その子羊が屠られる時に、イエス・キリストは十字架で死なれました。

それは、まさに、イエス・キリストがこの過越の子羊として、「世の罪を取り除く神の子羊。」として死んで下さったことを意味しています。

イエス・キリストこそ、本物の過越の子羊だったということです。

ヨハネ 1:19-28

「ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」」(1:23)

19節以下はユダヤ人とバプテスマのヨハネとの対話です。

バプテスマのヨハネの働きが、エルサレムの指導者たちが無視できない状態だったのです。

彼らが一番気になったのは、彼が「キリスト」、すなわち、旧約聖書が預言してきた来るべき王、「メシア」かどうかということでした。

バプテスマのヨハネは「違う」と否定します。

ヨハネの応答は自分のことについての質問を嫌っている印象も受けます。

彼が語りたいのは、自分のことではなく、別の方であることが伝わってきます。

ヨハネは、自分が目立たないようにしている印象も見受けられます。

ヨハネは、自分をもはや「人」というカテゴリーではなく、ただの「声」ですと言います。

使徒パウロは言います。

「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(2コリント4:5)

ヨハネ 1:9-18

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

「私たちの間に住まわれた」は直訳すると「幕屋を張った」です。

これは出エジプトの時、イスラエルの民の中心に張られた幕屋を連想させます。

イエス・キリストは、荒野で造られた幕屋に神の臨在が宿られたように、人々の中に住まわれたということです。

出エジプトに出てくる幕屋の特徴の一つは、神の栄光が幕屋に満ち、その上には、昼は雲の柱、夜は火の柱があったということです。

聖書は言います。

「旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。」(出40:38)

ヨハネは、「私たちはこの方の栄光を見た」と言いますが、それはまさに、このイスラエルの民が荒野で雲の柱や火の柱を見たように見たということだと思われます。

ヨハネ 1:1-8

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(1:5)

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

今年はヨハネの福音書からです。

闇は光を征服することはありませんが、闇の存在は認識されています。

ある意味、闇があるからこそ光の存在が大事であり、単純に「闇がなくなればいい」ということでもありません。

キング牧師が言ったように「暗闇の中でこそ、星が見える」のです。

この世には暗闇があり、闇の力があり、私たちは嫌な思いをすることもあれば、追い詰められることもあります。

しかし、闇が私たちを打ち負かすことはありません。

闇があるがゆえに、私たちは、まことの光であるキリストとの関係を深め、闇があるがゆえに私たちは成長していきます。

闇は、呪いでも、前世の報いでもありません。

私たちが闇を体験するのは、闇の中に輝いているまことの光、イエス・キリストを、私たちが見あげ、この地にキリストの光を輝かすためです。