ヨハネ 6:60-71

「それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。」(6:67)

F.F.ブルースという聖書学者がこんなことを言っています。

「彼らが望むものを彼は与えず、彼が提供するものを彼らは受け取らなかった。」

弟子たちのうちの多くの者は、イエス様が自分たちが思ったように与えてくれない、都合の良い存在ではないと分かると、離れ去ってしまったと言います。

残念ながら、どんなに福音を聞いたとしても、信仰に結びつけることをしなければ、離れ去ってしまうことがあります。

聖霊様が命を与えることなしに、人々は、命である方を知ることはできません。

人々がイエス様から離れ去っていく中で、イエス様は12弟子にも尋ねます。

「あなたがたも離れて行きたいのですか」(67節)

ペテロの応答は、はっきりしています。

「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」

ヨハネ 6:41-59

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(6:51)

イエス様が与えられるのは、イエス様ご自身だと言われました。

イエス様はご自身の体を、人類の救いのために捧げると言われたのです。

つまり、私たちを罪から救うために、十字架で死なれることをほのめかしたのです。

「天から下って来た生けるパン」が意味することは、これは、私たち人間側の努力次第という話ではないということです。

アウグスティヌスがこんな解説をしています。

「それゆえ、主は聖霊を与えようとして、ご自分が天からくだってきたパンであると言われ、ご自分を信じるようにと勧められました。彼を信じることは、命のパンを食べることだからです。信じることで、食べたことになるのです。」

イエス・キリストを信じたならば、いのちのパンを食べたのだと言います。

ヨハネ 6:22-40

「イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」」(6:29)

群衆はイエス様に「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」と尋ねました。

日本語では分かりづらいのですが、群衆が尋ねた「神のわざ」の「わざ」は複数です。

イエス様が答えられた「神のわざ」の「わざ」は単数です。

神は「永遠のいのちに至る食べ物」を得るために、「ああしなさい、こうしなさい」とは言いません。

また、私たちの努力次第でなんとかなるものだとも言いません。

「神のわざ」はただ一つ、それは、「神が遣わした者」、すなわちイエス・キリストを信じることだと言います。

「信仰義認」と言いますが、永遠の命を受けるために唯一求められている「神のわざ」は、主イエス・キリストを信じることだけです。

自分が罪人であることを認め、自分中心の人生から、神中心の人生に方向転換(悔い改め)して、イエス・キリストを信じることだけです。

第172回芥川賞

先日リラの宮脇から「この人、鈴木先生の息子さんじゃない?」とメールがきました。

鈴木結生(すずきゆうい)さん芥川賞受賞の記事と共に鈴木先生ご家族と一緒に撮ったリラコンサート後の写真が添付され、懐かしい記憶が一気に蘇ってきました。

東日本大震災から半年余り過ぎたころ、福島県郡山市にある郡山コスモス通り教会でのリラコンサート。

少し時間が経っていたとはいえ、高速道路もまだあちこちに地震の影響が残っていました。

放射能の影響があるから公園で遊ばせることができず、子どもたちがストレスを感じているという話に心痛め、そんな中でも笑顔で私たちの訪問を喜んで、そばを離れようとしない子どもたちの姿に涙したあの日。

小6で福岡に引越し、「東北の思い出を残したくて書いたのが初めての小説だった」と記事にはありました。

1月17日で阪神淡路大震災から30年。

思い出したくない記憶と引き継がなければならない経験の狭間で難しい対応が迫られていると聞きます。

経験した者にしかわからない「ことば」で紡ぎ出されていく彼の小説が、キリストを指し示す光となることを祈っています。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 6:1-21

「そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。」(6:11)

5つのパンと2匹の魚で5千人の男性を養ったという話は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に記録されています。

それだけ印象深い出来事だったのだと思われます。

神のみこころは、少しずつではありませんでした。

11節をLBではこう訳しています。

「そこでイエスはパンを取り、神に感謝の祈りをささげてから人々にお配りになりました。また魚も、同様になさいました。みんなほしいだけ食べて、満腹しました。」

「みんな、少しずつもらって満足しました」

という話ではありません。

「みんなほしいだけ食べて、満腹しました。」

と聖書は言います。

神は気前よく

「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」(エペソ3:20)

です。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 5:39-47

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(5:39,40)

聖書はイエス様について証言しているものです。

ですから、イエス様を中心に聖書を読まないと、聖書を本当の意味で理解することはできません。

そして、聖書を読むならば、イエス様のもとに来るものだと言います。

聖書の主要な目的はイエス様を知ることです。

聖書をどんなに読み、研究したとしても、イエス様を知ろうとイエス様のもとへ行かなければ、聖書が語っていることを本当の意味で理解することはできません。

宗教改革の指導者、マルチン・ルターは、こんなことを言っています。

「聖書はみどり子イエスが眠るかいばおけ、あるいは『ゆりかご』である。ゆりかごを調べることに夢中になって、この赤ちゃんを礼拝することを忘れてはならない。」

ヨハネ 5:30-38

「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」(5:36)

イエス様は、

「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。」(32節)

と言われました。

「ほかにも証しをする方」は、父なる神です。

その証言の一つはイエス様の働き、奇跡の御業です。

「わたしが行っているわざ」をLBでは「わたしの行う奇跡」と訳しています。

文脈を考えるならば、ここでは、ベテスダの池の側にいた病人を癒したことを指していると思われます。

LBでは

「父がわたしをお遣わしになったという動かぬ証拠なのです」

と訳していますが、イエス様の御業そのものが、イエス様の神性、権威の証拠です。

ヨハネ 5:19-29

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(5:25)

「神の子」の声を聞く者は生きる、永遠のいのちを持つと言います。

「今がその時です。」と言われますから、イエス様が与えられる「永遠のいのち」は、単に、死後の話ではないということが分かります。

つまり、今この時、イエス様を信じる者のうちに永遠のいのちは始まり、死んだ後には、復活のからだでその永遠のいのちに生きるということです。

「永遠のいのち」は、「神の子の声を聞く時」にある現実です。

それは、聖書の御言葉に耳を傾ける人のうちにある現実であり、聖書の御言葉に耳を傾ける人々のただ中にある現実です。

ですからイエス様は言われました。

「聞く者は生きます。」

「永遠のいのち」をもっている人、復活の命を体験している人は、今、この時、「神の子の声を聞く」のです。

「神の子の声」、それは、聖書の御言葉です。

ヨハネ 5:1-18

「イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」」(5:8)

聖書の御言葉に生きようとするときに、誰もが葛藤を体験します。

聖書のみことばはイエス様の言葉のように天に属する言葉、新しい創造をもたらす言葉です。

しかし、私たちはこの地上、古い創造の常識の中に生きています。

ですから、聖書の御言葉を読んでも、「そんなことはあり得ない」と葛藤が起こります。

しかし、今日の箇所で私たちが学ぶべきことは、このベテスダの池にいたこの人が、イエス様の御言葉に従ったという事実です。

そして御言葉に従った時、彼は奇跡を体験しました。

神の御言葉に生きる時、私たちは奇跡を体験します。

私たちはこの地上の常識に縛られないように気をつける必要があります。

神の奇跡を体験するためには、聖書の御言葉に、自分の常識を一新させる必要があります。

そのために、私たちは日々聖書の御言葉を読み、聖書の御言葉に自分の思考を刷新する必要があります。

ヨハネ 4:43-54

「イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」(4:50)

王室の役人ということは、当時のガリラヤの領主だった、ヘロデ・アンティパスに仕えていたということだと思われます。

この役人は地位も名誉も富も持っていました。

しかし、彼はそれら全てを投げ打って、イエス様のところに行き、息子を癒してくれるように願い求めました。

イエス様に対して口論することも、言い訳もすることなく、ただ、イエス様の存在を求めました。

それに対して、イエス様は言われました。

「あなたの息子は生きています」(直訳)

イエス様は彼に病気が癒やされた証拠を与えたわけではありません。

ただ、「言葉」だけを与えました。

しかし、彼はそのイエス様の「言葉」を信じました。イエス様の言葉が彼の信仰を形造りました。

神は聖書をよく読み、神の御言葉を信じ、神のみこころに生きる人を求めています。