ヨハネ 10:22-31

「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(10:27)

イエス様に属する人は「わたしの声を聞き分けます」と言います。

イエス様の声を聞き分ける方法は聖書を読むことです。

なぜなら、聖書は神のことばであり、聖書と矛盾することを神が語られることはないからです。

「彼らはわたしについて来ます」とあるように、聖書の御言葉はイエス様についていくためにあります。

どんなに聖書の知識を増やしても、イエス様についていかなければ、本当の意味で聖書を理解することはできません。

ですから、イエス様に属する人は、規則的に祈り、聖書を読む時間を大切にします。

聖書は言います。

「時間と労力とを有効に使って、いつも霊的に高められるよう自分を訓練しなさい。」(1テモテ4:7LB)

ヨハネ 10:11-21

「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」(10:18)

イエス様は、力ある神であり、十字架にかからないこともできたはずです。

しかし、あえて、十字架にかかり、死んでくださいました。

それは、私たちの罪が赦されるためでした。

私たちが、滅びることなく、永遠の命を持つためには、私たちの代わりに、十字架にかかり、死ぬ必要がありました。

イエス様は良い羊飼いであるがゆえに、私たちの代わりに罪の呪いを背負い、十字架にかかり、死んでくださいました。

イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つために。

このイエス・キリストこそ、私たちの良い羊飼いです。

ヨハネ 10:1-10

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(10:10)

イエス様が来られた目的は、人が本物の命、永遠の命を持つためです。

ただの命ではなく、溢れるほどの命だと言います。

イエス様は、私たちが最高の人生を生きて欲しいと願っています。

良い牧者であるイエス様は、私たちのことをよく知っておられます。

私たち一人一人のことを理解して、導いてくださいます。

ですから、周りと比較することは意味がありません。

イエス様は、私たち一人一人を理解した上で、私たち一人一人に合う方法で、私たち一人一人の名を呼び、導いてくださるからです。

大事なことはこれです。

「先頭に立つのは羊飼い、羊はそのあとについて行きます。その声を知っているからです。」(4節LB)

イエス様の後について行く人生は、決して楽な人生ではありませんが、退屈ではありません。

ヨハネ 9:35-41

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」」(9:41)

イエス様を通して行われる神の御業に対して、盲目になっていることをパリサイ人たちは、謙遜に認めることができませんでした。

ですから、目の見えなかった人の証を拒絶し、彼を追い出してしまったのです。

教会の歴史も、似たような繰り返しです。

宗教改革の指導者マルチン・ルターも、時のカトリック教会から追い出されました。

アズサ・ストリート・リバイバルのセイモア牧師も、スウェーデン・ミッションの創立者、レヴィ・ペトロス牧師も同じです。

私たちもパリサイ人のように、自分たちだけが見えている、分かっているかのように振る舞い、神の御業に対して盲目とならないように気をつける必要があります。

聖霊様は今も働いておられます。

コザクラインコ

ずっと実行したい思っていることの一つに「インコを飼う」というものがあります。

特に羽色のグラデーションが美しいコザクラインコをもう何年も前から飼いたいと言い続けています。

たまに近くのロイヤルホームセンターへ見に行ってはコザクラインコへの思いを募らせています。

どうして飼っちゃダメなの?という問いに夫は「だってうちにはジョシュ(猫)がいるでしょ?」と。

先日久しぶりにコザクラインコを見にロイヤルホームセンターに行きました。

じっと見つめているわたしに気づいたのか、店員さんがゲージを開けてその子をそっとわたしの手に乗せてくれたのです。

ブルーとグレーのグラデーションが美しい大人しい子で、時々甘噛みしながらすっぽりとわたしの手の中に入り、優しく指で撫でているといつのまにか眠ってしまいました。

神様の作品はなんて素晴らしいの!

もう、わたしの気持ちの85%はこの子を連れて帰るという思いになっていました。

その危険を敏感に察した夫がわたしにこう聞いてきたのです。

「ジョシュの1番好きなちゅーる(ペースト状の猫餌)の味は?」

「えっと、『とりささみ』、、。」

 (小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 9:13-34

「彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」」(9:25)

証言の利点は、その事実を否定することができないことです。

事実は、盲目であった彼が今は見えるということです。

イエス・キリストは、今も生きて働いておられ、人を救い、人生を変えられます。

アメージング・グレイスの賛美が、今も世界中で愛されている理由は、そのことを体験しているからだと思います。

日本語訳の「おどろくばかりの」では、残念ながら訳出されていませんが、1節の後半にはこういう歌詞があります。

「私は盲目だった。でも、今は見ている。」

C.S.ルイスは、こんなことを言っています。

「太陽が昇ったことを信じるように、私はキリスト教を信じます。太陽が見えるからだけではなく、太陽によって他のすべてが見えるからです。」

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 9:1-12

「イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(9:3)

ユダヤ教では、両親が何か悪い事をしたことによって、子どもが生まれつき体に問題が生じるという教えが受け入れられていました。

イエス様の答えは明確です。

「あなたは間違った質問をしている。あなたは誰かのせいにしたがっている。ここにそのような因果関係はない。それよりも、神がなさることに目を向けなさい。」(MSG)

犯人探しをするのは、間違っていると言います。

なんでもかんでも因果関係を探るのは、間違っていると言うのです。

それよりも、神がなさることに目を向けなさい。

と言います。

あの人が悪い、この人が悪い、誰かのせいにしている限り、私たちは解放されることはありません。

私たちは、それよりも、神がなさることに目を向ける必要があります。

神のわざ、それは裁くことではなく、救うことです。