ヨハネ 13:21-30

「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」(13:27)

メリル・テニーという学者は、この時がユダが裏切りを放棄する最後の機会だったと言います。

「自己中心的な衝動に身を任せたことで、サタンの支配への道が開かれた」と言います。

サタンの存在を理解することが難しいと言う人もいますが、この世界に起こる信じられないような凶悪犯罪の背後に、悪の力があることを否定することは難しいと思います。

サタンがアダムとエバをだましたように、人をだまして支配し、殺し、滅ぼそうとしています。

私たちは信仰に立って、イエス・キリストの御名によって、悪魔に対抗する必要があります。

「時は夜であった。」(30節)とありますように、世の光であるイエス様から離れるならば暗闇しかありません。

イエス様に留まることが大事です。

ヨハネ 13:12-20

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」(13:15)

イエス様は弟子たちの足を洗った後、「模範を示した」と言われました。

この出来事が模範だったことは確かです。

問題は、何の「模範」だったかということです。

イエス様は言われました。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)

つまり、イエス様が足を洗ったのは、神がどのようなお方かを示すイエス様の模範だったのです。

これは、神の御国の民として、神がどのようなお方かを示すために、「寛大に自分を与える愛」に生きるという模範です。

聖書は言います。

「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべき」(使徒20:35)

イエス様は確かにそう言われました。

「それを行うなら、あなたがたは幸いです。」(17節)

脱皮!

先週北海道の海岸に無数の毛蟹の殻が打ち上げられているというニュースを見て、しかもそれが脱皮した殻だということをしり「蟹も脱皮するんだ」ということを知らずに生きてきたことを恥じております。

ザリガニの脱皮は幾度となく見たことがあるのですが人生で蟹を飼うということはしたことがなかったため遅ればせながら水族館のタカアシガニ脱皮の動画を見てみました。

脱皮にかかった時間はなんと6時間だそうです。

力尽きて途中で死んでしまうこともあるそうで、文字通り命懸けで殻からの出てくるのです。

とても神秘的で感動しました。節足動物は全て脱皮するということで、実はうちのジェニー(カメ)も脱皮しながら大きくなっているのです。

スケルトンで脱皮がわかる蟹とは違いますがピンポン玉よりも小さかったジャニーが大人の手のひらよりも大きくなっている姿は神様の創造の素晴らしさを身近で感じる存在です。

私たちが目を向ければ神様の偉大さがそこここにあることに気が付きます。

先週の週報でかつ兄が書いていたように、まずは自分の手のひらを観察することから始めてみませんか? 

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 13:1-11

「ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」」(13:8)

イエス様はペテロに言いました。

「私があなたを洗わなければ、私がしていることの一員にはなれない」(MSG)

「イエス様がなされることに身を委ねることができなければ、神のご計画の一員になれない」ということです。

イエス様がなされることをいつも理解できるとは限りません。

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」

とイエス様が言われたように、今は分からないということが多々あります。

しかし、イエス様を信頼して、イエス様がなされていることに身を委ねることができなければ、私たちは神の遠大な計画の一員となることはできません。

してもらうことは信頼の証です。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 12:37-50

「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」(12:50)

父なる神の命令は永遠のいのちで、イエス様も、同じように「永遠のいのち」を話していると言います。

それは、また、イエス・キリストを信じる者たちもまた、同じように「永遠のいのち」を話すようにということです。

私たちは人々に、「永遠のいのちの言葉」、「来るべき時代の言葉」、「信仰の言葉」を語っているでしょうか。

父なる神の命令は「永遠のいのち」です。

主は私たちに「永遠のいのちのことば」、「来るべき時代の言葉」、「信仰のことば」を、誰かに語って欲しいと願っています。

人は、「永遠のいのちのことば」、「来るべき時代の言葉」、「信仰のことば」を聞く必要があります。

「永遠のいのちのことば」、「来るべき時代の言葉」、「信仰のことば」を、誰かに語ることができますように。

ヨハネ 12:20-36

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(12:24)

イエス様のポイントは明確です。

新しい命を他の人に与える前に、イエス様の命を犠牲にする必要があったということです。

この24節の原則は、広く適用できることをイエス様は告げています。

25節をメッセージ訳では、このように訳しています。

「同じように、ただ、命にしがみついている人は、その命を滅ぼします。しかし、もしあなたが無謀な愛で命を手放すなら、あなたは永遠に、本物の、そして永遠の命を手に入れることができます。」

イエス様の十字架の死は「無謀な愛」(reckless love)でした。

驚くことは、イエス様は私たちに「同じように」「無謀な愛」に生きるようにと語っていることです。

自己保身の生き方ではなく、「無謀な愛」に生きるなら、「本物の、そして永遠の命を手に入れることができます」と言います。

ヨハネ 12:12-19

「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(12:15)

この箇所はゼカリヤ書9:9からの引用です。

聖書は「あなたの王を見てみてください」と言います。

「私たちの王、イエス様は、軍馬ではなく、ろばの子に乗っているのが分かりますか」と。

マカバイの時のように「今こそ、蜂起して、ローマ帝国から自由を勝ち取ろう!」と叫ぶ群衆に、「あなたの王をよく見てください」と言います。

「イエス様が乗っているのは軍馬ではない。ろばの子だ。」と。

ゼカリヤ書の預言は続けてこう語られます。

「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」(9:10)

私たちが見るように言われている王は「平和の君」です。

剣ではなく、愛で勝利された王です。

私たちの罪の身代わりとなって十字架で死ぬことによって勝利された王です。

ヨハネ 12:1-11

「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(12:3)

イエス様は、すべての教会が、賛美の香油の香りでいっぱいの場所になって欲しいと願っておられます。

それは、イエス様への賛美で教会を満たすということです。

ただ単に歌を歌うということではありません。

マリアは自分がもてる最高のものをイエス様に捧げました。

私たちも、自分がもてる最高のものをイエス様に捧げることが求められています。

なぜなら、イエス様は「ふさわしい方」だからです。

このイエス様の貴さ、イエス様の価値を見失ってしまうならば、伝道も、奉仕も、教会生活も、虚しいものとなってしまいます。

賛美の歌を歌うのは、イエス様が「賛美を受けるにふさわしい方」と認識するからです。

イエス様は、私たちの全てを捧げるのに値するお方です。

ヨハネ 11:45-57

「祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。」(11:47)

イエス様に批判的だった祭司長たちもパリサイ人たちも、イエス様が多くのしるしを行っていることを知っていました。

しかし、彼らはイエス様を信じられませんでした。

聖書はその理由をこのように解説しています。

「どうして彼らはそれを見逃したのでしょうか。なぜなら、神を信頼する代わりに、彼らが主導権を握ったからです。彼らは、自分たちがしていることに夢中になっていたのです。彼らは自分の「神プロジェクト」に没頭するあまり、目の前にいる神に気づかなかったのです。」(ローマ9:32MSG)

神は神であり、人が神になることはありません。

私たちが求められていることは、神を信頼することであり、自分の「神プロジェクト」に没頭することではありません。

イエス様が今も多くのしるしを行なっていることを信頼できますように。

ヨハネ 11:36-44

「イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」」(11:39)

マルタはいわゆる常識人で、石を取りのけるとどうなるか、よく分かっていました。

ある意味、取りのける必要があったのは、「常識」だったと言えるかもしれません。

そんなマルタに、イエス様は言いました。

「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40節)

つまり、神の栄光を見るためには、信仰をもって取りのけなければいけない石があると言ったのです。

イエス様が取りのけるようにおっしゃられている「石」はないでしょうか。

神の栄光を見るのを邪魔している石はないでしょうか。

それは、自分の中で作ってしまっている限界かもしれません。

この国に神の御国をもたらすために、イエス様が「取りのけなさい。」と言われる石があるのではないでしょうか。

この石は、祈りなくして取りのけることはできません。