遠州からっ風

先週JPFの大会に参加してきました。

アルファでお馴染みのニッキーガンベル先生が来られるとのことで、一年近く前から行きたいと願っていました。

初参加できて感謝!

あまりにも浮かれていたのか、今季一番の寒さだというのにダウンジャケットを家に忘れたのです。

会場の浜名湖周辺の風が強いこと強いこと。

湖面に無数の刀があるような模様ができていました。

加えて寒波の影響で気温も低く曇天だったので寒さのトリプルパンチです。

ソドムから逃げるロトの家族がひたすら前を向いて走ったように、わたしも駐車場から会場の入り口まで後ろを振り返らず全力で走り抜きました。

こんなに寒い経験をしたのは久しぶり。

ダウンを持ってこなかったことを心底後悔しました。

幸い会場は汗をかくほど(?)の暖かさでした。

良い環境の中でニッキー先生の穏やかで力強いメッセージに感激し、全国から参加した教職の方々と共に心を合わせて祈り、賛美し、無事帰ってきました。

調べてみたらあの強風は遠州からっ風と言い、季節風の影響で、南アルプスから海に向かって乾燥した風が吹き降りる、浜松の冬の風物詩なのだそうです。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 11:17-35

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(11:25,26)

「復活」は単なる「教理」、教えではなく、イエス様ご自身だと言われました。

「復活」は単なる未来の出来事ではなく、イエス様ご自身だと言われたのです。

私たちは教えではなく、今も生きて働いておられるイエス・キリストを信じるように語られています。

マルタはイエス様の「あなたは、このことを信じますか。」という言葉に応答します。

「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」(27節)

主は私たちにも同じ質問をされています。

単なる「教え」とか「教理」とかいうレベルの話ではなく、イエス・キリストを、よみがえられた「生ける神」として信じているかどうか。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 11:1-16

「姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」」(11:3)

ラザロが病気だったので、姉妹たちはイエス様にメッセージを送りました。

「あなたが愛しておられる者」は、友人愛を意味する「フィレオー」が使われています。

マルタもマリアも、イエス様がラザロのことを気にかけておられることを確信していました。

さらに聖書は言います。

「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(5節)

イエス様はラザロだけではなく、マルタとその姉妹マリアも、愛しておられたと言います。

ここでは、神の愛を意味するアガペーが使用されています。

私たちは、神さまに愛されていると確信をもって祈ることができます。

その根拠は、ひとり子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださったからです。

イエス様の十字架を見上げ、確信をもって祈りましょう!

ヨハネ 10:32-42

「しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(10:38)

イエス様が「わたしのわざを信じなさい」と言われた意味は、それがすごい奇跡だからということではなく、それが父なる神のわざだからということです。

イエス様が提供されるものは、父なる神が提供されるものです。

イエス様は約束されました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(28節)

イエス様が提供されるものは、永遠の命です。

来るべき時代のいのちです。

そして、それは、誰も奪い去ることはできないと言います。

ヨハネ 10:22-31

「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(10:27)

イエス様に属する人は「わたしの声を聞き分けます」と言います。

イエス様の声を聞き分ける方法は聖書を読むことです。

なぜなら、聖書は神のことばであり、聖書と矛盾することを神が語られることはないからです。

「彼らはわたしについて来ます」とあるように、聖書の御言葉はイエス様についていくためにあります。

どんなに聖書の知識を増やしても、イエス様についていかなければ、本当の意味で聖書を理解することはできません。

ですから、イエス様に属する人は、規則的に祈り、聖書を読む時間を大切にします。

聖書は言います。

「時間と労力とを有効に使って、いつも霊的に高められるよう自分を訓練しなさい。」(1テモテ4:7LB)

ヨハネ 10:11-21

「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」(10:18)

イエス様は、力ある神であり、十字架にかからないこともできたはずです。

しかし、あえて、十字架にかかり、死んでくださいました。

それは、私たちの罪が赦されるためでした。

私たちが、滅びることなく、永遠の命を持つためには、私たちの代わりに、十字架にかかり、死ぬ必要がありました。

イエス様は良い羊飼いであるがゆえに、私たちの代わりに罪の呪いを背負い、十字架にかかり、死んでくださいました。

イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つために。

このイエス・キリストこそ、私たちの良い羊飼いです。

ヨハネ 10:1-10

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(10:10)

イエス様が来られた目的は、人が本物の命、永遠の命を持つためです。

ただの命ではなく、溢れるほどの命だと言います。

イエス様は、私たちが最高の人生を生きて欲しいと願っています。

良い牧者であるイエス様は、私たちのことをよく知っておられます。

私たち一人一人のことを理解して、導いてくださいます。

ですから、周りと比較することは意味がありません。

イエス様は、私たち一人一人を理解した上で、私たち一人一人に合う方法で、私たち一人一人の名を呼び、導いてくださるからです。

大事なことはこれです。

「先頭に立つのは羊飼い、羊はそのあとについて行きます。その声を知っているからです。」(4節LB)

イエス様の後について行く人生は、決して楽な人生ではありませんが、退屈ではありません。

ヨハネ 9:35-41

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」」(9:41)

イエス様を通して行われる神の御業に対して、盲目になっていることをパリサイ人たちは、謙遜に認めることができませんでした。

ですから、目の見えなかった人の証を拒絶し、彼を追い出してしまったのです。

教会の歴史も、似たような繰り返しです。

宗教改革の指導者マルチン・ルターも、時のカトリック教会から追い出されました。

アズサ・ストリート・リバイバルのセイモア牧師も、スウェーデン・ミッションの創立者、レヴィ・ペトロス牧師も同じです。

私たちもパリサイ人のように、自分たちだけが見えている、分かっているかのように振る舞い、神の御業に対して盲目とならないように気をつける必要があります。

聖霊様は今も働いておられます。

コザクラインコ

ずっと実行したい思っていることの一つに「インコを飼う」というものがあります。

特に羽色のグラデーションが美しいコザクラインコをもう何年も前から飼いたいと言い続けています。

たまに近くのロイヤルホームセンターへ見に行ってはコザクラインコへの思いを募らせています。

どうして飼っちゃダメなの?という問いに夫は「だってうちにはジョシュ(猫)がいるでしょ?」と。

先日久しぶりにコザクラインコを見にロイヤルホームセンターに行きました。

じっと見つめているわたしに気づいたのか、店員さんがゲージを開けてその子をそっとわたしの手に乗せてくれたのです。

ブルーとグレーのグラデーションが美しい大人しい子で、時々甘噛みしながらすっぽりとわたしの手の中に入り、優しく指で撫でているといつのまにか眠ってしまいました。

神様の作品はなんて素晴らしいの!

もう、わたしの気持ちの85%はこの子を連れて帰るという思いになっていました。

その危険を敏感に察した夫がわたしにこう聞いてきたのです。

「ジョシュの1番好きなちゅーる(ペースト状の猫餌)の味は?」

「えっと、『とりささみ』、、。」

 (小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 9:13-34

「彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」」(9:25)

証言の利点は、その事実を否定することができないことです。

事実は、盲目であった彼が今は見えるということです。

イエス・キリストは、今も生きて働いておられ、人を救い、人生を変えられます。

アメージング・グレイスの賛美が、今も世界中で愛されている理由は、そのことを体験しているからだと思います。

日本語訳の「おどろくばかりの」では、残念ながら訳出されていませんが、1節の後半にはこういう歌詞があります。

「私は盲目だった。でも、今は見ている。」

C.S.ルイスは、こんなことを言っています。

「太陽が昇ったことを信じるように、私はキリスト教を信じます。太陽が見えるからだけではなく、太陽によって他のすべてが見えるからです。」

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!