ヨハネ 20:1-10

「さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。」(20:1)

「週の初めの日」とは、日曜日のことで、キリスト教会が日曜日に礼拝する理由が、ここにあります。

つまり、イエス・キリストが復活された日を「主の日」として覚え、私たちは日曜日に礼拝しているのです。

イエス・キリストが復活されたのが歴史的事実であるがゆえに、今も世界中で、日曜日に礼拝が捧げられています。

イエス・キリストは、死の力を打ち破り、よみがえられ、今も生きておられます。

イエス・キリストは、

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)

と約束されました。

ですから、よみがえられたイエス・キリストは、私たちのただ中におられます。

たとえ、私たちの肉眼では見えなくても、「ここにおられる」というイエス様の臨在を、私たちは感じることができます。

ヨハネ 19:31-42

「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。」(19:38)

イエス様が死んだ後、アリマタヤのヨセフが登場します。

彼は今までイエス様の弟子であることを、ユダヤ人を恐れて、隠していました。

彼は「秘密の弟子」(a secret disciple)(TPT)でした。

彼がその後どうなったかは分かりません。

ある伝説では、ユダヤ人たちが彼を捕えて、窓のない家の中に拘置したけれども、復活されたイエス様がそこから奇跡的に救い出したと言います。

聖書に書いてありませんし、歴史的事実ではないと思います。

ただ、「秘密の弟子」が、信仰の一歩を踏み出したことによって、歴史を超えて、どれだけ多くの人たちが、そのことによってインスピレーションが与えられてきたかを見ることができます。

かなりつらい

終戦後の荒廃した日本に積極的に植えられた大量の杉の木。

その花粉はいま春の風に乗って飛来し、わたしたちを悩ませています。

個人的には2週間ほど前から急に症状がひどくなってきたと感じていますが皆さまはいかがでしょうか。

昨晩は耳の中や口の中が痒くて痒くてなかなか眠れませんでした。

杉の種は成熟した杉の木が地面に落とす「球果」と呼ばれる実の中に含まれていてそれが地面に落ちて芽を出し、新たな杉の木が生まれるのだそうです。

さらに杉は日本の固有種だと今回初めて知りました。

学名は「クリストメリアヤポニカ」、{隠された日本の財産}という意味なのだそうです。

ヒマラヤスギ、レバノンスギなど「スギ」の名前がつくものはありますがそれらはいずれも「マツ科」。

日本の杉は「ヒノキ科」なのだそうです。

厄介者に感じますが二酸化炭素の吸収率が高い、根を深く張るので土砂崩れを防ぐ、シロアリなどの繁殖を防ぐ、天然の調湿作用があるなどなどメリットも多く生活の中でわたしたちはその恩恵も受けているとのこと。

ネガティブな中にも恵みはたくさんあることを体験できる1週間でありますように。

神様の恵みは宝のようにあちこちに隠れていますから。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 19:23-30

「イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」(19:30)

イエス様は十字架の上で言われました。

「完了した」(19:30)

28節に、

「イエスはすべてのことが完了したのを知ると」

とありますが、聖書が私たちに教えていることは、イエス・キリストは十字架によって人間の罪の問題を解決済みにされたということです。

神はただ人を愛しているからと言って、人間の罪の問題を無かったことにすることはできませんでした。

神は神ですから、正しい裁きをゆがめることはできません。

ですからイエス・キリストは、十字架の上で、私たちの身代わりとなって正しい裁きを受けてくださる必要がありました。

多くの新興宗教は、イエス様の十字架の御業を過小評価します。

イエス様は失敗したから新興宗教の教祖が必要だと主張するのです。

しかし、イエス様の十字架の御業は完全でした。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 19:14-22

「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。」(19:19)

新約聖書の中には、福音書が4つ収録されています。

この4つの福音書に共通して記述されている出来事があります。

それは、イエス・キリストの十字架と復活です。

つまり、イエス・キリストの十字架と復活を語ることなしに、福音を語ったことにはならないということです。

ですから、宗教改革の指導者、ルターが言ったように、「十字架のみがわれわれの神学である」ということです。

そして、このイエス・キリストの十字架と復活の共通点の一つは、十字架の上に掲げられた罪状書きです。

そこには、「ユダヤ人の王」と書いてありました。

「福音」と訳されたギリシア語の単語は、「王の即位を知らせる」と言う意味がありました。

つまり、イエス・キリストは、あの十字架の上で、ユダヤ人の王として即位されたと言うことを示しているのです。

ヨハネ 19:1-13

「イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」」(19:5)

ピラトがどういう思いでこの言葉を発したのかは、想像の域を超えませんが、明らかに、ピラトが知っている以上のことを彼は言ったと思います。

「この人を見よ」をラテン語では、「エッケ・ホモ」(Ecce Homo)と言います。

ドメニコ・フェッティという画家が、この題で書いた有名な絵があります。

ある時、1人の青年が旅先で、美術館に立ち寄りました。

彼はその美術館に展示されていたこの絵の前で身動きが取れなくなりました。

彼の両眼からは涙があふれていました。

この絵は、いばらの冠をかぶったイエス様の絵です。

この絵の下に、ラテン語でこのように書かれていました。

「わたしは、あなたのために、これをした。あなたは、わたしのために、何をするか」

彼こそは若かりし頃のツィンツェンドルフ伯爵。

彼が導くモラビア兄弟団は世界中に宣教師を派遣する団体となります。

ヨハネ 18:28-40

「すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。」(18:40)

「強盗」と訳された単語は政治的なテロリストという意味があります。

要するに、バラバはユダ・マカバイのような「反乱首謀者」だったのです。

ですから、メッセージ訳では

『バラバはユダヤ人の解放運動戦士だった』

と訳しています。

イエス様の罪状は、十字架に掲げられた罪状書きに「ユダヤ人の王」と記されたように、王と名乗り、民を扇動した反乱首謀者です。

バラバの名前が挙がったのは、彼が反乱首謀者だったからです。

バラバは、軍事的な抵抗運動、暴力的反乱によって、解放を信じる人の希望です。

イエス様は人から踏みにじられるままにしなさいと言った訳ではありません。

ただ、マカバイ抵抗運動のように、軍事的な抵抗運動、暴力的反乱に加わってはいけないと言われたのです。

いつの時代も、バラバかイエス様か人々は選択することになります。

ヨハネ 18:15-27

「しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。」(18:18)

聖書を読んでも匂いを感じることはないかもしれません。

しかし、今日の場面は匂いがあります。

それは炭火の匂いです。

ペテロは自分がイエス様との関係を否定してしまったことと、炭火の匂いがリンクするようになったと思います。

ヨハネの福音書の21章で、ペテロは再び、炭火の匂いを嗅ぐことになります。

復活されたイエス様が、夜明けに岸辺に立っていました。

イエス様のところに行くと、

「そこには炭火がおこされていて、」(21:9)

とあります。

そこで、イエス様はペテロに、「わたしを愛していますか。」と尋ねられます。

イエス様はペテロを赦し、遣わしたのです。

そして、失敗は終わりではないことを示されたのです。

そして、砕かれたペテロは、聖霊様の力で、イエス様を大胆に証していくようになります。

ヨハネ 18:1-14

「一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。」(18:2)

イエス様がおられる場所を人は知ることができるということです。

どこに行けばイエス様に出会えるか、イエス様を裏切ろうとしていたユダさえも、その場所を知っていました。

イエス様は言われました。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)

使徒パウロは、このように説明しています。

「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:22,23)

教会はキリストのからだであり、教会のただ中に、かしらなるイエス様がおられます。

ヨハネ 17:20-26

「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」(17:23)

イエス様の言葉は明白です。

私たちの神の家族、教会としての一致は、未信者に対するもっとも大きな証となるということです。

自分のプライドや好みを捨て、神の目的に集中することは私たちの責任であるということです。

私たちが互いに愛し合うならば、私たちがイエス様に属していることを世に示します。

そして、人生を変えるキリストの力の証となるということです。

それは、断じて思想統制のようなことではありません。

イエス様が示した模範は、互いの足を洗いあうことでした。

つまり、「クリスチャンが一つになる」という意味は、

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」

ということです。