ホセア書 4:11-19

「悟ることのない民は滅びに落ちる。」(4:14)

イスラエルの国はソロモン王の後、北と南に分裂しました。

ホセアは北イスラエル王国に遣わされた預言者でした。

南ユダ王国とは違って北王国はすぐに主なる神を離れて偶像礼拝に陥ってしまいました。

北イスラエルの民は良識を失い、悟ることなく快楽に堕ちていきます。

ここでは特に神殿娼婦の類の問題が指摘されています。

このような行為の意図は、豊穣の神々であるバアルとアシェラが喜ぶことを行って豊作を願うという異教の習慣でした。

それは、社会生活を壊す行為でした。

結局のところ、「悟ることのない民は滅びに落ちる。」とあるように、根本的な問題は神の御言葉に対する理解がなかったことにあると聖書は言います。

謙遜に聖書の御言葉に耳を傾け、神のみこころを理解することができますように。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ホセア書 4:1-10

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れる。」(4:6)

神のことばを教えるべき祭司たちが、神のことばを教えなかったがゆえに滅ぼされると言います。

教会も、この世の人が受け入れやすいものを語り、神のことばを教えなくなるならば、同じ過ちを繰り返すことになります。

ですから聖書は命じます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:2-4)

ホセア書 3:1-5

「主は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」」(3:1)

ゴメルはホセアの元を去って、自堕落な生活を繰り返し、結局は奴隷として売られるようになります。

ホセアは、驚くことに、そんなゴメルをお金を支払って買い戻します。

それは、神がホセアにこう命じたからです。

「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」

ここに、神の愛が現されています。

神の愛は、それでもなお、こんな私たちを愛してくださる、永遠の愛です。

ホセア書 2:14-23

「それゆえ、見よ、わたしは彼女を誘い、荒野に連れて行って優しく彼女に語ろう。」(2:14)

神は私たちを口説いて、荒野に連れて行き、語られるお方であると聖書は言います。

人は自我が砕かれ、「自分中心」から「神中心」に変えられる必要があるからです。

私たちが直面する様々な試練は、神が私たちを口説いているのかもしれません。

神が私たちを口説いて行く場所が荒野であるというのはあまり耳に心地良い話ではありません。

しかし、そこでなければ聞くことができない神からの優しい語りかけがあります。

もちろん、荒野に行くことが神のみこころではありません。

続けて神は言われます。

「わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。その場所で彼女は答える。若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように。」(15節)

神は私たちに将来と希望を与えたいのです。

ホセア書 2:2-13

「しかし彼女は知らない。このわたしが、穀物と新しいぶどう酒と油を彼女に与えたのを。わたしが銀と金を多く与えると、彼らはそれをバアルに造り上げたのだ。」(2:8)

聖書は

「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」(1コリ10:26)

と言います。

ですから

「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」(1テモテ4:4)

イスラエルの民は神から与えられた神のもので偶像に仕えていました。

根本的な問題は霊的無知だと言いますが、それは、弁解の余地のないものだと聖書は言います。

「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ1:9-20)

全ての人は神に立ち返る必要があります。

ホセア書 1:1-2:1

「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。」(1:10)

ホセアが活動した30年ほどの間に、イスラエルの国は、王朝が4度も代わり、政策もアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。

そんな中、イスラエルの民は、豊かさを約束する、バアル神へ傾倒していきました。

ホセアは、預言活動の初期、不道徳な女性、ゴメルと結婚し、その子どもたちに不思議な名前をつけるように命じられます。

「イズレエル」は場所の名前で、王朝の滅亡を暗示しました。

「ロ・ルハマ」の「ロ」は否定で、「ルハマ」は「憐れみ」で、「憐れみはない」という意味です。

「ロ・アンミ」の「アンミ」は「私の民」で、「私の民ではない」という意味です。

これは、偶像礼拝をやめないイスラエルの民を神が捨てられることを示唆する内容でした。

しかし、神は懲らしめの後、謙らされた後に、「生ける神の子ら」となると言います。

人は、自我が砕かれることを通して神の民になります。

ネヘミヤ記 13:23-31

「私の神よ、どうか彼らのことを覚えていてください。彼らは祭司職を汚し、祭司職とレビ人たちの契約を汚したのです。」(13:29)

ネヘミヤが祭司職を汚していると言った理由は、

「大祭司エルヤシブの子エホヤダの子の一人は、ホロン人サンバラテの婿であった。」(28節)

ということです。

サンバラテという名前は2章に出てきます。

「ホロン人サンバラテと、アンモン人でその部下のトビヤは、これを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の益を求める者がやって来たからである。」(2:10)

要するに、サンバラテは神の働きを妨害していた異邦人でした。

大祭司が、神の働きを妨げている異邦人と婚姻関係を結んだのは、政治的な理由だったのだと思われます。

この世の価値観に振り回されることなく、神の御心に生きることが、指導者の責任です。

教会が神の御心を第一とすることができるように、お祈りください。

背中が、、、

痛い。

どうやら筋を違えたようです。

息をするのも痛い。

下を向くのも痛い。

横になるのも痛い。

寝返りのたびに痛くて目が覚める。

原因はわかっています。

単純に重いものを無理して持ったから。

できると思ったのですが自分のキャパを正確に把握できていなかったようです。

重いもの、だけではなく様々な場面でこの失敗をしてきた人生でもあります。

その度に謙遜にさせられますが主の御手にすがりつつ歩んでいきたいと願います。

こんなわたしでも、主よ、知恵を与えてくださいと祈らされるのですから国のリーダーなら尚更のことだと思います。

今回自民党の総裁に選出された石破さんは4代目のクリスチャン。

わたしの記憶が正しければプロテスタントのクリスチャンが総理総裁になるのは40年以上前の大平正芳さん以来だと思います。

現職の総理が亡くなり、しかも棺に十字架があしらってあったことは幼かったわたしの記憶に今も鮮明に残っています。

石破さんにも私たちが想像もできないような孤独とご苦労があると思いますが、主が力を与え国の舵取りをする知恵を豊かに与えてくださるよう祈ります。

(小山晶子牧師夫人)

ネヘミヤ記 13:10-22

「私の神よ、どうか、このことのゆえに私を覚えていてください。私が神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行いを、ぬぐい去らないでください。」(13:14)

「レビ人の分が支給されていなかったために、務めに当たるレビ人と歌い手たちが、それぞれ自分の農地に逃げ去っていた」(10節)

と言います。

問題の根底にあったのは、トビヤという人物に、レビ人と歌い手たちに支給するために物資を保管する場所をあてがっていたという政治的な理由からでした。

この世の常識を教会に持ち込む時、教会は本来の機能を失います。

レビ人たちや歌い手たちは、礼拝をするために欠かせない人たちです。

しかし、この世の常識で、取るに足りない存在と考えられ、蔑ろにされてしまったのだと思われます。

ネヘミヤは礼拝を第一にしました。

彼は誰からも理解されなくても神に認められることを願いました。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ネヘミヤ記 13:1-9

「その日、民が聞いているところでモーセの書が朗読され、その中に、アンモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。」(13:1)

ルツ記のルツはモアブ人でした。

彼女は神の集会に加わり、ダビデの先祖の一人となります。

したがって、ここで指摘されている内容は民族の問題ではありません。

ルツは言いました。

「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)

ここで問題になっているのは、アンモン人トビヤのようにエルサレムに住んでいながら、自分たちの伝統的な神々に忠誠を誓う人たちは、神(ヤハウェ)の共同体の完全な一員になれないということです。

実際、トビヤは穀物の捧げ物を保管すべき場所を占領し、神殿の機能を妨げていました。

教会も信仰者でない人が運営するならば同じような問題が起こり得ます。

教会は、神の御言葉に従って運営されなければなりません。