ネヘミヤ記 12:31-47

「次に、ゼカリヤの兄弟たちシェマヤ、アザルエル、ミラライ、ギラライ、マアイ、ネタンエル、ユダ、ハナニで、神の人ダビデの楽器を持って続いた。学者エズラが彼らの先頭に立った。」(12:36)

学者の後を賛美奉仕者たちが続いたという記述は私たちに大事なことを教えます。

賛美と神学は対立するものではなく、相互補完的なものです。

健全な神学のない賛美はただの歌となってしまいます。

賛美のない神学は寝学となり死学となってしまいます。

ネヘミヤ記全体にこのバランスが描かれています。

J.I.パカー先生は神に栄光を帰さない神学はないと言っていました。

すべての栄光は、父、子、聖霊の三位一体なる神に。

神を讃えよ。全ての祝福は神から流れてくる。

神を讃えよ。全ての被造物よ。

神を讃えよ。全ての天の軍勢よ。

父、子、聖霊を讃えよ。アーメン。

ネヘミヤ記 12:22-30

「エルサレムの城壁の奉献式に際して、彼らはあらゆる場所からレビ人を捜し出してエルサレムに連れて来た。シンバルと琴と竪琴に合わせて感謝の歌を歌い、喜びをもって奉献式を行うためであった。」(12:27)

イスラエルの民が何もしなければ、エルサレムの城壁を再建することはできませんでした。

神が何もなさらなかったのならば、城壁は築かれませんでした。

ですから、民は感謝の歌を歌う理由がありました。

ネヘミヤの役割は、城壁の再建でした。

そのためにエルサレムまではるばるやってきました。

ですから、城壁の奉献式がなされることは、彼にとっても大きな節目だったと思います。

ただ、ネヘミヤは自分の功績をアピールするようなことは言いませんでした。

神の恵みの御業であると確信していたからだと思います。

「恥は我がもの、栄光は主のもの」と言われますが、主の栄光だけがこの地を覆いますように。

ネヘミヤ記 12:1-21

「また、レビ人では、ヨシュア、ビヌイ、カデミエル、シェレベヤ、ユダ、マタンヤで、感謝の歌を受け持っていたのはマタンヤとその兄弟たちであった。」(12:8)

バビロンから、ゼルバベルとヨシュアと一緒に帰ってきた祭司とレビ人たちのリストが記されています。

名前が並べられているところに、突然、

「感謝の歌を受け持っていた」

という記述が入ります。

彼らは帰還してから感謝の歌を歌い始めたのでしょうか。

それとも、バビロンに捕囚されていた時も、感謝の歌を受け持っていたのでしょうか。

記述されていないので、想像の域を越えることはありません。

ただ、もし、捕囚地でも感謝の歌を歌い続けていたとするならば、私たちに対する大きなチャレンジになります。

良い時だけでなく、悪い時も、感謝の歌を歌い続けるならば神の奇跡を見ることになります。

「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。(中略)すると突然、大きな地震が起こり、」(使徒16:25,26)

ネヘミヤ記 11:22-36

「農地がある村々で、ユダの子孫の一部が住んだのは、キルヤテ・アルバとそれに属する村々、ディボンとそれに属する村々、エカブツェエルとその村々、」(11:25)

エルサレムの外、農地がある村々に住むようになった人たちのリストが記されています。

中世の教会の問題は、「聖俗分離」という理解だったと言われます。

宗教的なものは神に属しますが、その他の世俗的なものは神に属さないという理解です。

プロテスタントの万人祭司主義は、このような「聖俗分離」の考え方に一石を投じました。

世俗的なものは悪いものという考え方は短絡的です。

キリスト者の歩みは、人生の公的領域に広げられていくものです。

ですからイエス様は、神のみこころが天で行われているように、この地に行われるように、「御国が来ますように」と祈るように教えられました。

ネヘミヤ記 11:10-21

「また、ミカの子マタンヤ。ミカはアサフの子のザブディの子である。マタンヤは祈りの時に感謝の歌を歌い始める指導者、バクブクヤはその同族の副指導者であった。また、シャムアの子アブダ。シャムアはエドトンの子のガラルの子である。」(11:17)

エルサレムに住んだ祭司とレビ人たちのリストが記されています。

その中のマタンというレビ人の仕事を、このように表現しています。

「祈りの時に感謝の歌を歌い始める指導者」

祈りの時は、感謝の歌を歌う時です。

感謝を捧げる時です。

感謝のない祈りの時はありません。

聖書は言います。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。」(1テサロニケ5:16-19)

聖霊様によって、すべてのことを感謝し、絶えず祈り、いつも喜ぶことができますように。

汗が

人生でこんなに頻繁に頭から汗をかく日が来るなんて考えもしませんでした。

波のように訪れるその時間は携帯扇風機のお世話になりっぱなしです。

それでふと思いました。

猫のジョシュは汗をかかないのだろうか?

亀のジェニーは水の中で生活しているから汗は想像できませんが猫は暑い日に暑い部屋で寝ているので不思議に思いました。

汗で体が濡れていたことはこれまで見たことがないので少し調べてみました。

驚くことに気温の変化で全身に汗をかく生き物は人間と馬(馬は運動や緊張で)ぐらいだそうです。

おお、やはり人間は特別なのだと感激していたら「汗をかく機能がからだに備わったのは、猿から人に進化する過程でのこと」ですって。

いやいや、神様がそう造られたのだと信じる方がよほど簡単だと思いますが、、、

タイムリーにもあるクリスチャンの心臓外科医が書いた『あなたがどこから来たのかわかる本』が増補改訂版でつい最近出版されました。

興味のある方はお貸しします。

さて、猫に関してですが汗をかくのは鼻と足の裏の肉球のみだそうです。

汗ひとつとっても神様の創造のわざを讃美せずにはいられません。
(小山晶子牧師夫人)

ネヘミヤ記 11:1-9

「民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな祝福した。」(11:2)

エルサレムを1節で「聖なる都」と呼んでいます。

旧約聖書で「聖なる都」という表現は、この他、18節と、イザヤ書48:2、52:1、そして、ダニエル書9:24の5箇所しかありません。

エルサレムは「聖所」、神殿がありましたから、「聖なる都」と呼ばれました。

しかし、ネヘミヤの時代、エルサレムには十分な住民がいませんでした。

それで、民の指導者たちのほか、くじを引いて、10分の1の民を住むようにしました。

しかし、「自分から進んでエルサレムに住もうとする人々」がいました。

「聖なる都」のために進んで犠牲を払う人たちがいたということです。

聖書は言います。

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」(1コリント9:7)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ネヘミヤ記 10:32-39

「このようにして私たちは、自分たちの神の宮をなおざりにはしない。」(10:39)

イスラエルの民が誓った誓いの一つは、

「自分たちの神の宮をなおざりにはしない」

ということでした。

使徒パウロは、

「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(1コリント3:16)

と言いました。

ですから、教会は神の宮です。

教会には、見えない普遍的な教会と、見える地域教会の両面があります。

見えない普遍的な教会だけでなく、自分が導かれ、属している見える地域教会をなおざりにしないことが大切です。

神が遣わされたその神の宮で、主への礼拝が捧げ続けることができるように、私たちは協力し合うことが求められています。

そのようにして、神の栄光はこの地にあらわされていきます。

ネヘミヤ記 10:1-31

「このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌い手、宮のしもべたち、また、諸国の民と関係を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、彼らの親類のすぐれた人々と歩調を合わせつつ、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行うという、次のような、のろいの誓いに加わった。」(10:28,29)

ネヘミヤ記は、第二神殿時代のユダヤ人にとって、律法の朗読、そして、律法の朗読に民が応答することがどれほど重要になったかが描かれています。

ここでは、「私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行うという・・・のろいの誓いに加わった」と言います。

「すべて理解できるまでになった者」、すなわち、神との関係は指導者たちだけではなく、すべての人に関わるものです。

一人一人が、神との関係を築く必要があるということです。

ネヘミヤ記 9:32-38

「私たちに降りかかったすべてのことにおいて、あなたは正しくあられます。」(9:33)

捕囚が終わったと人々は考えていませんでした。

ですからレビ族は祈ります。

「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。私たちが実りと良い物を食べられるようにと、あなたが先祖に与えてくださった、この地で。ご覧ください。私たちは奴隷です。私たちの罪のゆえに、この地の豊かな産物は、あなたが私たちの上に立てられた王たちのものとなっています。彼らは私たちのからだを支配し、家畜も彼らの思いのままです。私たちは大きな苦しみの中にいます」(9:36,37)

この時、彼らはペルシャの支配下にあり、この後、ギリシャ、シリア、ローマの支配下に生きることとなります。

捕囚は申命記30章にあるように罪の呪いの結果であり、捕囚の終了は罪の赦しを意味します。

イエス・キリストの十字架の死と復活は、捕囚の終了、罪の赦しをもたらした神の約束の成就でした。