ネヘミヤ記 6:1-14

「私には分かった。今、彼を遣わしたのは、神ではないと。彼がこの預言を私に伝えたのは、トビヤとサンバラテが彼を買収したからだと。」(6:12)

ネヘミヤは預言者の言葉に惑わされることはありませんでした。

神殿の聖所は祭司だけが入ることが許されていました。

預言者と呼ばれる人であったとしても、神の言葉と矛盾していることを言っているならば、その預言者は神からではありません。

同じように、聖書と矛盾することを語る人は神からではありません。

私たちは惑わされないためにも聖書に精通する必要があります。

このような状況でもネヘミヤの心が守られたのは、常に祈りに変えたからだと思われます。

ネヘミヤは祈りました。

「神様。トビヤ、サヌバラテ、女預言者ノアデヤ、その他の預言者の罪を、一つ残らず覚えていてください。彼らはあの手この手で、私の気持ちをくじこうと謀りました。」(6:14LB)

祈りに変えることができますように。

ネヘミヤ記 5:14-19

「私の神よ。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」(5:19)

ネヘミヤはユダの総督として働きましたが、総督としての報酬を受けませんでした。

また、彼は威張り散らすこともしませんでした。

彼の動機は権力でも金でもなかったからです。

それでは、彼の動機はなんだったのでしょうか。

ネヘミヤは祈りました。

「神様、この民に対して私のしたことをお心に留め、私を祝福してください。」(5:19LB)

彼が求めたのは神からの報酬でした。

使徒パウロもそうでした。

彼はこの地上での人生が終わる直前に、このように書き送りました。

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:7,8)

ほんの少し

ほんの少しだけ秋めいてきました。

朝夕の風が涼しく感じられ、そこに秋の虫の声も加わり猛暑を振り返る余裕も出てきた今日この頃。

ここからはクリスマスシーズン、年末まで一気に駆け抜ける感じもしますが、一つ一つの教会の働きを丁寧に行っていけるようお祈りいただければ幸いです。

ところで、今月最後の日曜日(9/29)午後、ホルン奏者の宮田四郎さんが伝道コンサートをしてくださることを皆さまご存知でしょうか。

昨日申し込み状況をチェックしたらなんとまだ一名しか(しかも他教会の方)名前がありませんでした。

8月は暑すぎて、または忙しすぎて考えられなかったという方もいらっしゃると思います。

入り口にチラシがたくさんありますのでご家族友人知人をお誘いいただきふるってご参加ください!

そういえば昨年の秋の伝道コンサートは岩渕まことさんご夫妻が来てくださいましたね。

多くの方の協力と祈りの支えがあってこの教会がこの地に存在しているのだと思います。

誰かが福音を伝えてくれたから、今私たちがここにいるのです。

誰かのために私たちも福音を伝える者になりましょう。

(小山晶子牧師夫人)

ネヘミヤ記 5:1-13

「私は続けた。「あなたがたのしていることは良くない。あなたがたは、私たちの敵である異邦の民から侮辱を受けることなく、私たちの神を恐れつつ歩むべきではないか。」(5:9)

旧約聖書において、金を貸すことは必要な人に憐れみを示すことであって、お金を稼ぐ手段ではありませんでした。

「もしあなたの同胞が落ちぶれて、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼をあなたのところに在住している寄留者のように扶養し、あなたのもとで生活できるようにしなさい。彼から利息も利益も得てはならない。あなたの神を恐れよ。同胞があなたのもとで生活できるようにしなさい。彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利益を得てはならない。」(レビ25:35-37)

ネヘミヤは、これは「私たちの神を恐れつつ歩む」ことだと言います。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ネヘミヤ記 4:15-23

「私たちの敵が、自分たちの企みが私たちに悟られたこと、神がそれを打ち壊されたことを聞いたとき、私たちはみな城壁に戻り、それぞれ自分の工事に当たった。」(4:15)

神が敵の企みを打ち壊されたと民は聞いたとき、彼らは再び自分の工事に当たったと言います。

神に信頼することと、敵の攻撃に備えることは矛盾しません。

聖書は言います。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(1ペテロ5:8,9)

イエス・キリストの十字架によって、敵の企みは打ち壊されました。

しかし、それは私たちの信仰生活を破壊しようとするサタンの誘惑がなくなったわけではありません。

霊的な目を覚ましていることが求められています。

ネヘミヤ記 4:1-14

「そこで私たちは、私たちの神に祈り、」(4:9)

神のみこころにかなった働きでも、邪魔が入ることがあります。

民は一生懸命働きました。

しかし、邪魔が入りました。

まず、嘲りの言葉で心を挫こうとしました。

10節にこう書いてあります。

「荷を担ぐ者の力は弱り、瓦礫は山をなしている。城壁を築き直すことなど、私たちにできはしない。」

6節を見ると、この時、半分の高さまで城壁が継ぎ合わされたところだったことが分かります。

そこまでがんばったのに、民は、「もうダメだ」「私たちにできはしない。」と、燃え尽き、つまずいてしまったと言うのです。

「もうダメだと思う時」にどうしたらいいか、まず、祈ることです。

「私たちは」とあるように、一人で背負わずに、一緒に祈ることです。

祈りには力があります。

祈りの友を持つことは力となります。

教会で一緒に祈ることは力となります。

ぜひ、祈祷課題をお知らせください。

ともに祈りましょう!

ネヘミヤ記 3:15-32

「その向こうでは、ベニヤミンとハシュブが自分たちの家のそばの部分を修復した。その向こうでは、アナネヤの子マアセヤの子アザルヤが自分の家の近くを修復した。」(3:23)

自分の家の近くを修復するだけでも、城壁が再建することができたというメッセージは心に留めるべき内容です。

なぜなら、キリストのからだも、それぞれがその力量にふさわしく働く力によって建て上げられていくからです。

聖書は言います。

「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」(エペソ4:16)

「私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。」(エペソ4:7)

とあるように、私たちは何かしらの賜物が与えられています。

喜んで、キリストのからだを建て上げるために用いていくことができますように。

ネヘミヤ記 3:1-14

「こうして大祭司エルヤシブは、その仲間の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、扉を取り付けた。そしてメアのやぐらのところまで聖別し、ハナンエルのやぐらにまで及んだ。」(3:1)

エルサレムの城壁の再建の先頭に立ったのは、大祭司とその仲間の祭司たちでした。

リーダーは模範となる必要があります。

彼らが率先して模範を示したことが、大きな力となったことは言うまでもありません。

城壁の再建は、一人でできることではありません。

協力する必要があります。

キリストのからだを建て上げることも同じです。

一人でできることではありません。

主にある兄弟姉妹たちが協力する必要があります。

「この良い仕事に着手した」人しか分からない祝福の世界があります。

神の御国のために労苦した人しか分からない世界があります。

「あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

ネヘミヤ記 2:11-20

「そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また王が言ったことばを彼らに告げた。すると彼らは「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。」(2:18)

ユダヤ人の心を動かしたのは、ネヘミヤの信仰の証でした。

しかし、彼はその前に、現状をその目で確認しました。

目の当たりにした悲惨な現状は、彼の信仰を揺るがすことはありませんでした。

彼の信仰の証は現実を見据えた上だったので説得力があったのだと思われます。

不可能と思えた状況の中で、王が許可をしてくれたという彼の信仰の証は、人々に新しい力を与えたと思われます。

イエス様は言われました。

「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

「神様としか言えない」信仰の証は、人々の心を動かし、良い仕事に着手する動機づけとなります。

ネヘミヤ記 2:1-10

「私は天の神に祈ってから、王に答えた。」(2:4,5)

神は私たちの祈りを用いられます。

どんな小さな祈りでも、どんな短い祈りでも、神は用いてくださいます。

ただし、神の答えはいつも私たちの願い通りとは限りません。

イエス様は言われました。

「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(マタイ7:11)

イエス様は求めた通りに与えてくださるとは言いませんでした。

「良いものを与えて」くださると言われたのです。

それは、時には「この時ではない」、「待ちなさい」ということもあると思います。

しかし、そうであってもイエス様は言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(7:7,8)

ですから、まず「祈ってから」はじめましょう。