ネヘミヤ記 2:1-10

「私は天の神に祈ってから、王に答えた。」(2:4,5)

神は私たちの祈りを用いられます。

どんな小さな祈りでも、どんな短い祈りでも、神は用いてくださいます。

ただし、神の答えはいつも私たちの願い通りとは限りません。

イエス様は言われました。

「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(マタイ7:11)

イエス様は求めた通りに与えてくださるとは言いませんでした。

「良いものを与えて」くださると言われたのです。

それは、時には「この時ではない」、「待ちなさい」ということもあると思います。

しかし、そうであってもイエス様は言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(7:7,8)

ですから、まず「祈ってから」はじめましょう。

お米がない

令和の米騒動とでもいうべきでしょうか。

報道では知っていましたがどこに行っても米が売られていないという事態に遭遇し流石に少し焦りました。

コストコにもロピアにもエイビーにもサンドラッグにも、棚に米袋が一つもないなんて、こんな経験初めてです。

マリーアントワネットは「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」と言ったとか言わないとか。

わたしもお米がないなら小麦粉で主食を確保するしかないと思いせっせとベーグルを焼いております。

ところで今日から9月。

今年もあと4か月となりました。

とにかくこの異常な暑さを乗り切ることができ感謝ですが、夏の疲れが出てくる時期でもあると思います。

皆さまの日々が守られますよう祈ります。

わたしたちを健やかにする日々の糧はとても大切。

身体のために必要な食物だけでなく、霊の糧も毎日きちんといただきましょう。

クリスチャンが日々の霊的な糧である聖書の御言葉を頂かないと信仰生活は栄養失調となってしまいます。

もし信仰生活がバテていると感じているなら、霊的な食生活を改善することも必要です。

 (小山晶子牧師夫人)

ネヘミヤ記 1:1-11

「ああ、天の神、主よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。」(1:5)

ネヘミヤは祈りの人でした。

エルサレムの悲惨な状況を聞いた彼は祈りました。

解決策を考える前に、助けてくれる人を探す前に、誰かと相談をする前に、神に祈りました。

彼は誰に祈っているかをよく知っていたからです。

だから、まず何よりも神の力と偉大さを宣言しました。

「ああ、主なる神様。あなたを愛し、あなたに従う者に対して約束されたことを果たし、愛と思いやりを示してくださる、畏れかしこむべき神様。どうか、この祈りをお聞きください。」(LB)

私たちが祈る神は、

「約束されたことを果たし、愛と思いやりを示してくださる、畏れかしこむべき神様」

です。

このお方は私たちの祈りを用いて御業を行われます。

祈りに導かれることはすべて良いことです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2テサロニケ 3:6-18

「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。」(3:15)

最後にパウロは、厳しく命じています。

「もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。」(3:14)

しかし、そうは言いながらも、パウロはつけ加えます。

「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。」

夫婦関係も、相手を敵のようにみなしてしまうならば、修復が難しくなります。

教会も、敵のように見なす時に、立ち行かなくなります。

たとえ考え方があわなくても、敵ではありません。

神の家族です。

本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもってです。

2テサロニケ 2:13-3:5

「あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」(2:17)

あらゆる良いわざとことばに進むためには、

「あなたがたの心を慰め、強めて」

とあるように私たちの内側が取り扱われる必要があります。

メッセージ訳は、

「あなたがたの中に、新鮮(フレッシュ)な心を置いて」

と訳しています。

新鮮さを保つということは難しいことです。

果物は刈り取った時点で、新鮮さが失われていきます。

魚も釣り上げた時点から、新鮮さが失われていきます。

ですから、新鮮な心を保つためには、常に、私たちの心に励ましと希望を与えてくださる神との関係が必要です。

E.M.バウンズはこんなことを言っています。

「その人格によって、キリストを最も完全に示し、世の人々に対して、主のために、最も大きな影響を及ぼしてきた人たちは、祈りが彼らの生涯において特に目を引く特徴となるくらいに、神との交わりに多くの時間をかけた人々でした。」

2テサロニケ 2:1-12

「霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」(2:2)

残念ながら、終わりの日に関して、人々を不安に陥れるような言及をする人たちがいます。

恐怖心を煽り、人々の心を支配しようとするのは、カルトの常套手段です。

聖書は、そのような話を聞いても信じてはいけないと明言します。

また、このような人は、最終的には「自分こそ神であると宣言」すると言います。

これが新興宗教です。

人が神になることは絶対にありません。

また、自らを再臨のキリストと呼ぶ人は偽キリストです。

どうしてそんな人を信じる人が出るのでしょうか。

なぜ、神は、彼らがだまされるままに放っておかれるのでしょうか。

「それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。」(12節)

2テサロニケ 1:1-12

「ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。」(1:4)

テサロニケの教会は、

「あらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保って」

いました。

「それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠」(5節)

だと言います。

クリスチャン生活は決して楽ではありません。

世界では、今も迫害の中にあるクリスチャンたちがいます。

しかし、その中で信仰を保っていることが、

「あなたがたを神の国にふさわしい者と認める、神の裁定が正しいという証拠」(LB)

だと言います。

信仰は守り通すもの(2テモテ4:7)です。

膝をかがめ、聖霊様によって、守り通すものです。

1テサロニケ 5:23-28

「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」(5:24)

23節以下のパウロの締めくくりの祈りを見るとき、全ては神の信実に土台していることがわかります。

23節以下をパッション訳ではこのように訳しています。

「今、平和と調和(ハーモニー)の神があなたを聖別し、完全に聖なるものとしてくださいますように。そして、油注がれた方、私たちの主イエスが現れるとき、あなたの全存在-霊、魂、体-が完全に完璧な状態に保たれますように。あなたがたを名前で呼ぶ方は信頼できる方であり、あなたがたのうちにご自分の働きを完全に完成してくださいます。」

聖書は「あなたの努力次第」と言いません。私たちのうちに良い働きをはじめてくださった方は、キリストが再び来られるその時までに、完成してくださると言います。

「あなたを呼ばれた方は、完全に信頼できる方です。彼が言ったのなら、彼はそれを行います!」(24節MSG)

1テサロニケ 5:12-22

「御霊を消してはいけません。」(5:19)

19-22節をパッション訳ではこう訳しています。

「決して聖霊の火を抑えたり消したりしてはいけません。また、預言を軽んじる者でなく、テストすることによって誠実にそれらを吟味し、その後、正しいと証明されたものを堅く守る者でなければなりません。あらゆる悪の現れを避けなさい。」

「決して聖霊の火を抑えたり消したりしてはいけません。」

とあるように、コリント人への手紙第一の12-14章に出てくる聖霊の賜物は、どうでもいいものではありません。

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」(1コリント12:31新改訳2017)

と聖書が薦めるように、熱心に求めなければなりません。

聖霊の賜物を無視したり、軽んじたりして、ないがしろにしてはいけません。

私たちはすべての聖霊の賜物が必要ですし、すべての聖霊の賜物を熱心に求めるように聖書が命じているからです。

笠松フミ子先生

昨日この場所で笠松フミ子先生の告別式を行いました。

参列して下さった皆さま、供花にてお心を寄せて下さった皆さま、心より感謝いたします。

笠松兄と共に栄シャロームに転入会しておられたフミ子先生ですが、既に施設に入所しておられ、またコロナ禍ということで面会制限がありほとんどお目にかかることは叶いませんでした。

告別式で初めて会堂に入られたということは残念ではありますが、一度でも入っていただくことができたのだと気持ちを落ち着かせています。

葬儀の準備にあたり何人かの方から主の働きをしておられた頃のフミ子先生のご様子、思い出などを寄せていただきました。

慕われていたお人柄や教会学校の熱心な関わりなど初めて知ることばかりで胸がいっぱいになりました。

主のため人々のために捧げ切った人生。

その実は確実に残り次世代へと繋げられています。

ある方の思い出に「フミ子先生とリラの賛美をしていました。」というひと文があり泣きそうになりました。

天国でお目にかかれる日を楽しみに、私たちも地上での生涯をキリスト者として精一杯歩んでいけたらと願います。

 (小山晶子牧師夫人)