2列王記 20:12-21

「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。」(20:19)

南ユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされます。

この時、バビロンの使者たちに、ヒゼキヤ王がすべてのものを見せたのは、彼が傲慢になっていたからだということが歴代誌に解説されています。

「ヒゼキヤ王が奇跡的に治ったことを知ろうとバビロンから使節が遣わされて来た時、神は彼のするままにしておきました。彼がどのように振る舞うかを試すためでした。」(2歴32:31LB)

歴代誌にはさらにこのように記録されています。

「そこで、王とエルサレムの住民は高慢の罪を悔い改め謙遜になったので、主の憤りは去り、ヒゼキヤの在世中、二度と主の怒りは臨みませんでした。」(26節)

ヒゼキヤ王の発言は、謙遜に神の御言葉を受け入れたということです。

神はへりくだる者に恵みを与えられます。

2列王記 20:1-11

「「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。」(20:3)

ヒゼキヤ王は「死の備えをせよ」と言われた時に、大声で泣いて祈ったと言います。

これは死への恐怖というよりも、アッシリア軍がユダに侵攻していた頃だったからだと指摘する学者がいます。

後継者のマナセがまだ若かったので、ヒゼキヤ王はもう少し自分が生きて、統治する必要があると考えたというのです。

いずれにせよ、神は彼の涙の祈りを聞かれました。

イエス様もこの地上で涙の祈りをされたと聖書は教えます。

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

感情的な内容ですが、神は私たちの心も気にかけておられます。

2列王記 19:29-37

「わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」(19:34)

ヒゼキヤ王の祈りの答えは奇跡であるだけではなく歴史です。

「こんな奇跡が起こることなどありえない」と多くの人々は考えていました。

しかし1830年、英国人のテイラー大佐がプリズムを入手し、その記述を解読することによって、それが歴史的事実であったことが判明しました。

「センナケリブの角柱」とも呼ばれるテイラープリズムにはこう記録されていました。

「ユダヤ人ヒゼキヤに関して言えば(中略)彼自身は、私が王都エルサレムにかごの中の鳥のように閉じ込めた。私は彼を見張り所で取り囲み、誰も彼の町に出入りができないようにした。」

この記録は考古学者に注目されています。

セナケリブ王はエルサレムを包囲し、誰も出入りが出来ないようにしたにも関わらず、それ以上のことは記録されていません。

これは彼がエルサレム攻略に失敗したことを意味します。

2列王記 19:14-28

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取って読み、主の宮に上って行き、それを主の前に広げた。」(19:14)

アッシリヤ帝国のセナケリブ王からの脅しの手紙を受け取ったヒゼキヤ王は、主の宮に、その手紙をもって上って行きました。

彼は問題を認識しつつ、その問題を神のもとに持って行ったのです。

これは聖書が私たちに勧めていることです。

Ⅰペテロ5:7に、こう書いてあります。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

神は私たち一人一人を愛しておられ、私たち一人一人のことを心にかけておられるお方です。

ですから、ヒゼキヤ王がその問題の手紙をもって主の宮に入っていったように、私たちが問題をもって主の御前に出て祈る、神に委ねる、神にお任せすることを、神は願われています。

思いがけない問題が降りかかって来る時こそ、問題を祈りに変える時です。

祈りを聞かれる主は生きておられます。

横浜の歩き方

有名な旅ガイドブック『地球の歩き方』からなんと横浜市バージョンが先週発売されました!

大抵忘れ去られている栄区もしっかり掲載されています。

見開きで横浜市歌。

自慢じゃないけど高砂市歌など一文字も覚えていない私には、学校行事ごとに歌われる横浜市歌の父母歌唱率に毎回驚かされていました。

400ページ以上もあるこのガイドブック、掲示板の前に置いておきますので興味のある方はぜひ。

それにしても横浜市がさまざまな発祥地であることは知っていましたがまさか不二家もとは。

明治43年元町で開店したそうです。

ちなみに日本で一番売れている駅弁は崎陽軒のシュウマイ弁当。

私が夫に初めてもらったお土産もシュウマイでした、、、。

魅力あふれる横浜で、イエス様の魅力を伝えるにはどうしたらいいのか。

それにはまず私たちクリスチャンが、イエス様の魅力を知る必要があると思います。

3行書いたら書くことがなくなるような寂しい主との体験ではなく、ガイドブックが書けるぐらいイエス様の魅力、聖書の素晴らしさを知りたいものです。

皆さんは今、イエス様のことを何ページ書けそうですか?

(小山晶子牧師夫人)

2列王記 19:1-13

「あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。」(19:4)

紀元前701年、破竹の勢いで進撃するアッシリヤ軍に包囲されたヒゼキヤ王。

その時、彼が求めたことは祈ることでした。

彼らは預言者イザヤに言いました。

「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。」

カンタベリー大主教だったウィリアム・テンプルは言いました。

「私が祈るとき、偶然が起こる。祈らないと、起こらない」

祈らなければ開かれない世界があります。

聖書学者ゴードン・フィーはこのように言います。

「神は祈りに答えなければならないわけではないが、答えられる。」

神は私たちの祈りを用いて、神の栄光を表わし、神が今生きて働かれていることを、この世に知らしめます。

四方八方塞がれたとしても、天は開かれています。

日本の教会のため、牧師たちのため、信徒たちのため、祈りの声をあげましょう。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 18:26-37

「民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。」(18:36)

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(1ペテロ5:8,9)

悪魔の手口はラブ・シャケの言葉と似ています。

悪魔は、神の民の信仰をあざ笑い、信仰を揺るがそうとします。

神の力を否定する言葉の背後には悪魔がいます。

悪魔に対抗するには、エバのように悪魔の誘いに乗らないことです。

堅く信仰に立って対抗する方法は祈りです。

聖書は言います。

「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(エペソ6:18)

2列王記 18:13-25

「アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。」(18:17)

大英博物館にはアッシリア軍がラキシュを攻略した壁画が展示されています。

ラキシュはエルサレムの前の最後の砦であったことが、そこから大軍を送ったというこの一文から分かります。

アッシリアの王は言いました。

「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」(19節)

この後、ヒゼキヤ王は、主なる神により頼み、祈りに導かれます。

そして、神は祈りに応えられ、アッシリア軍はエルサレムを攻略することに失敗します。

大英博物館にエルサレムでなく、ラキシュの壁画が展示されている理由は、神が祈りに答えられた歴史的証拠です。

神は私たちの祈りを用いられ、御業を行われます。

主なる神に拠り頼んでいるならば、私たちは祈りに導かれるはずです。

そして、祈りを聞かれる主なる神を私たちは体験します。

2列王記 18:1-12

「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」(18:5)

ヒゼキヤ王の特徴として聖書が評価しているのは、彼が

「主に信頼していた」

ことです。

聖書は言います。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

神は私たちに信仰を求められます。

アブラハムは、

「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4:18)

ました。

使徒パウロもこう言っています。

「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」(2コリント5:7)

神は私たちに信仰によって生きることを求められています。

2列王記 17:34-41

「大きな力と、伸ばされた腕をもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえを献げなければならない。」(17:36)

イスラエルの民が今も大切に毎日唱えている祈りに「シェマ」と呼ばれる祈りがあります。

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命6:4,5)

この祈りは、福音書でイエス様も引用しています。

ですから、キリスト者は唯一の神を信じています。

父、子、聖霊の三位一体なる唯一の神を信じています。

そして、この三位一体なる神だけを恐れ、礼拝するということを大切にしています。

これは、信仰の本質的な部分です。

しかし残念ながら、現在、宗教多元主義の思想によって翻弄されている部分でもあります。

北イスラエル王国に何があったかを学ぶならば、私たちは恐れをもって気をつけるべきです。