あれから4年

2020年7月17日金曜日、私は救急車で運ばれ、新型コロナの罹患者として入院しました。

重症化し、集中治療室に入りました。

当時は未知の病で、治療法も手探りでした。

しかし、皆様の祈りに支えられ、神様の癒しを体験し、退院できました。

あれから4年の月日が流れました。

とはいえ、土曜日の新聞の読者アンケート統計ですと、今もマスクをしている人が76%、していない人が24%と、警戒感はまだなくなってはいないようです。

新型コロナに罹患したことによって多くの方々にご迷惑をおかけしましたが、恵みもたくさんありました。

神様が開いてくださった霊的な世界がありました。

福音理解、聖書理解も深められましたが、何よりも、祈りの世界が開かれました。

特に、病気の癒しの祈りが、これほど信仰を励まし、強めてくれるということがよく分かりました。

祈られているということを実体験できました。

あの時、自分が退院したら、祈る人になりたいと心に決めました。

そして、今、機会があるたびに、病気の癒しのために祈るように心がけています。

祈りを通して神様が働かれている証を聞くたびに、祈り続けようと励まされています。

2列王記 10:28-36

「主はエフーに言われた。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」」(10:30)

神が、エフーがイズレエルで行ったアハブの家への裁き、そしてバアル崇拝者の根絶を全面的に肯定しているように見えます。

しかし、ホセア書にはこう記されています。

「主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名づけよ。しばらくすれば、わたしがイズレエルでの流血のゆえにエフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせるからだ。」(1:4)

結局のところ、神は

「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

神は言われます。

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない─神である主のことば─。だから立ち返って、生きよ。」(エゼキエル18:32)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 10:12-27

「「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい」と言った。」(10:16)

「熱心」は「ねたみ」とも訳せる単語で、民数記に出てきます。

「「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。」(民数記25:11)

エフーもピネハスも暴力によって神の義をもたらそうとした人です。

回心前のパウロもそうでした。

「その熱心については教会を迫害したほどであり」(ピリピ3:6)。

しかし、パウロは後にこのように記しています。

「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ10:2,3)

神の義はキリストの十字架にあります。

2列王記 10:1-11

「だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」(10:10)

歴史が動く時、そこには人間の思惑以上のことが起こっています。

エフーは、

「主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」

と、すべてが神の御手の中にあったことを告げます。

私たちは神ではないので、すべてのことを理解することはできません。

しかし、確かに歴史を動かす生けるまことの神がおられます。

このお方がおっしゃることは必ず成し遂げられます。ですから、イエス様もおっしゃられました。

「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(マタイ5:18)

ですから、聖書を学ぶことは大切なことです。

2列王記 9:27-37

「帰って来てエフーにこのことを知らせた。するとエフーは言った。「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。」(9:36)

イゼベルは主の預言者たちを殺害し、エリヤの命さえ狙いました。

神はそんなイゼベルに裁きの宣告をエリヤに告げました。(1列王21章参照)

そして、その御言葉のとおりであったことをエフーは確信します。

聖書は言います。

「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ55:10-11)

主なる神が語られたならば、神が成し遂げられます。

ですから、日々、神の言葉である聖書の御言葉を読むことが大切です。

2列王記 9:14-26

「ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに帰っていたのである。エフーは言った。「もし、これがあなたたちの本心であるなら、だれもこの町から逃れ出て、イズレエルに知らせに行ってはならない。」」(9:15)

預言者がエフーに油を注いだことを知った彼の主君の家来たちは、「エフーは王である」(9:13)と言いました。

エフーの謀反に反対する人はいませんでした。

エフーはヨラム王をナボテの所有地であった畑に投げ捨てたとき、このように言います。

「思い起こすがよい。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブの後に並んで従って行ったときに、主が彼についてこの宣告を下されたことを。」(25節)

エフーは神がエリヤに語った言葉を知っていたのだと思われます。(1列王21章参照)

「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

2列王記 9:1-13

「エフーは立って、家に入った。そこで若者は油をエフーの頭に注いで言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。」(9:6)

サウル王も、ダビデ王も、油を注がれて王となりました。

油を注ぐことは王位が与えられる象徴です。

エフーに油を注ぐことは、そもそも、預言者エリヤに与えられた役割でした。(1列王19章参照)

それを、さらに後継者であるエリシャが、預言者に仕える若者に託しました。

いずれにせよ、王を廃することも、立てることも、主なる神です。

そのような意味で、最終的に油を注がれるのは主なる神です。

エフーは、神のみこころを行うために油を注がれました。

イエス・キリストを信じる者たちもまた、神のみこころを行うために油が注がれています。

聖書は言います。

「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。」(1ヨハネ2:20)

聖書を読むことから始まります。

2列王記 8:16-29

「しかし、主はそのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである。」(8:19)

人は影響を受ける存在です。

ですから、問題は誰の影響、どんな影響を受けるかです。

聖書は言います。

「彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻だったからである。彼は主の目に悪であることを行った。」(18節)

彼は妻の影響を受けました。

その妻は、北イスラエルにバアル礼拝をもたらしたアハブ王とイゼベルの娘でした。

私たちは自分は大丈夫と思わずに、悪い影響を受けないように気をつける必要があります。

残念ながら、ヨラム王は悪い王として歴史に名を刻むこととなります。

しかし、神はダビデとの契約に信実を尽くされました。

最終的に、イエス・キリストはダビデの子孫として生まれ、ダビデとの契約は成就します。

明けました?

 ああ、暑い。なんという暑さじゃ、、、

少し前にようやく梅雨入りしたはずなのに、もう、梅雨明けですか?という夏空。

数日前、幻聴かと思ったら本当に蝉が鳴いていました。

救急車の行き交う音も急に増えてきて、ああきっと熱中症だろうなとつい思ってしまうほどの尋常じゃない暑さに、本格的な夏を前に少々心が折れております。

みなさまご無事でしょうか。

近年は南の魚が東北の海で獲れるそうで、陸だけではなく海でも様々な異変が起きているそうです。

こんなに猛暑が続くならいっそ教会の広い屋根のスペースにソーラーパネルを置いたらどうかしらと真剣に考えてしまいます。

わたし自身数年前に熱中症に、しかも寝ている間になってしまった経験があります。

目眩と吐き気、身体の硬直が主な症状でしたが非常に怖かったです。

特に年齢を重ねると暑さの感覚が鈍ってきますので、自分の感覚を信じないで定期的な水分補給(スポーツドリンクが良いと思います)をしてくださいね。

今週も愛する兄弟姉妹の日々が守られますように、互いに祈りあい、支えあっていきましょう!

 (小山晶子牧師婦人)

2列王記 8:7-15

「さて、エリシャがダマスコに行ったとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった。すると彼に「神の人がここまで来ている」という知らせがあった。」(8:7)

ダマスコはアラム(シリア)の首都です。

どうしてエリシャがイスラエルからダマスコに行ったかは記されていません。

ただ、その知らせを聞いたアラムの王は、贈り物を持ってエリシャのところに行って、主なる神のみこころを求めるように告げます。

アラムの王に信仰があったかどうかは定かではありません。

しかし、エリシャがアラムの策略をことごとく妨害し、エリシャを捕らえようとした略奪隊を逆に捕らえて戻って行かせたことなど、エリシャを「神の人」と認識していたことは確かです。

私たちが理解すべきことは、神はイスラエルの国だけでなく、すべての人の神であるということです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!