黙示録 10:1-11

「私はその御使いのところに行き、「私にその小さな巻物を下さい」と言った。すると彼は言った。「それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」」(10:9)

この箇所の「御使い」はイエス様のことです。

私たちはイエス様のところに行かなければなりません。

イエス様のところに行ったヨハネは「その小さな巻き物を下さい」と求めました。

私たちは祈り求める姿勢が大切です。

「取って食べる」と言うのは文字通り聖書を「取って食べる」と言うことではありません。

比喩です。

聖書を開いて読み、それを自分の中に取り込むと言うことです。

巻物を食べる理由は、神のことばを消化して、神の言葉を語り、神の言葉に生きるためです。

聖書は単なる教養のためにあるわけではありません。

聖書をどんなに研究しても、神の言葉がしっかりと私たちの心と体の栄養となっていなければ、食べたとは言えません。

黙示録 9:1-21

「そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。」(9:4)

クリスチャンがこの世から挙げられた後にクリスチャンになった人に、害を加えられないように言い渡されたと言います。

私たちが気づいていないだけで、キリストを信じる者には特別な守りがあります。

しかし、神の私たちの理解を超えたご計画の中で、「なぜ?」と思われる出来事を許されることがあります。

この地上における私たちが考える守りは、神の目的にまさるものではありません。

「人生を導く5つの目的の中」で、リック・ウォーレン先生がこう言っています。

「神の目から見た信仰の偉大なる英雄とは、この人生において繁栄を誇り、成功を収め、権力の座に就いた人のことではなく、この人生を一時的なものと受け止め、永遠において神が約束された報いを受け取ることを期待して、神に忠実に仕えた人のことなのです。」

黙示録 8:1-13

「子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ほどの静けさがあった。」(8:1)

子羊はイエス・キリストを表し、キリストはこの世の終わりに封印を解いていきます。

ここで私たちは、七つの封印の最後の七番目の封印が解かれるのを見ます。

その時、何が起こったかといいますと「静けさ」だったとあります。

いわゆる「嵐の前の静けさ」です。

こういう受け取り方もできると思います。

神が介入するから、静まりなさい。

私たちが生ける神の現実を、人生の中で体験するために必要なことは、「静けさ」かもしれません。

神が私たちの人生に介入するために、まず、私たちの側に「静けさ」が必要なのではないでしょうか。

じたばたするのをやめ、神の前に両手を挙げる。

「私には、もう、どうしようもありません。神様、お願いします。」

この静けさの中で神が介入されます。

黙示録 7:9-17

「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」(7:9)

ヨハネは天国を見ました。

天国は、「数えきれないほどの大勢の群衆」が神を礼拝していました。

大切なポイントの一つは、「すべての国民、部族、民族、言語から」ということです。

神の救いは全ての人が対象です。

「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」とあるように、人はただ、イエス・キリストの十字架の御業によって救われます。

なつめ椰子の枝は、イエス様のエルサレム入城を思い出させます。

「なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」」(ヨハネ12:13)

天国は神に賛美と礼拝を捧げる場所です。

かびるんるん

良いお天気な上に空気が乾燥しているこのタイミングで我が家のエアコン大掃除を敢行いたしました。

今回は高温スチームを使ってみたのですが、真っ黒なかびるんるんと排気ガスの粒子が水滴と共に出てくる様はなかなか恐ろしい光景でした。

暖房と共にこれらが放出されていたのかと思うとぞっとしましたが、これで一安心、良い空気で冬を迎えられそうです。

先週日曜日は多くの兄弟姉妹と一緒に教会の大掃除とクリスマスの準備ができて感謝でした。

今日からアドベント。

イエス様の御降誕を喜びを持って待ち望み、このシーズンにイエス様に出会える方が起こされることを心から祈ります。

なんと栄シャロームの歴史上初めてクリスマスツリーを購入しました。

教会学校の子どもたちを中心にツリーにオーナメントを飾り付け明かりを灯すととてもとても素敵です!

今年もあと一月足らず。

この一年まだ誰にもイエス様のことを伝えていないなら、クリスマスほど良いチャンスはありません。

特別礼拝やキャンドルサービス、クリスマスマーケットなど機会を用いていただければと願っています。

(小山晶子牧師夫人)

黙示録 7:1-8

「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。」(7:3)

この世の終わり、キリスト者が一挙に天に引きあげられた(携挙)後、神の裁きとしての大患難時代がやってきます。

地上に残された人たちの中に、その時、神に立ち返る人たちがいます。

その人たちは、神の怒りが注がれる時に害を受けないように額に印が押されると言います。

「印」は神の所有であること、真正であることの証です。

今、キリスト者にとっての「印」は聖霊です。

聖書は言います。

「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」(エペソ1:13)

キリストを信じる者に内住される聖霊がキリストに属する者であることの「印」です。

今日は主の日。今日からアドベント(待降節)。共に主なる神に感謝と礼拝を捧げましょう!

黙示録 6:1-17

「神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(6:17)

「神と子羊の御怒りの、大いなる日」は、この世の終わりです。

イエス様が再び来られる前の大患難時代のことです。

その前に、キリスト者は一挙に引き上げられます。(1テサロニケ4章)

戦争や飢饉、地震などの自然災害など、今、すでに起こっている感じもしますが、その時は、今の比ではないのだと思われます。

「だれがそれに耐えられよう」は、直訳すると、「誰が立てるか」です。

ユージーン・ピーターソンは、天使たちは立てると言います。

7章で天使たちは、「地の四隅に立ち」(1節)とあります。

また、御座と子羊の前に立っていました。(11節)

天使は神のメッセージを伝えるものであり、悪を恐れることはありません。

悪は彼らを失望させることはできません。

悪は彼らを無力にすることはできません。

私たちの世界が崩れ落ちるように感じる時、天使たちは私たちのモデルです。

黙示録 5:8-14

「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」(5:8)

四つの生き物と24人の長老が何を意味するか、聖書学者の間でも意見が分かれています。

ここで大事なポイントは、この香が聖徒たちの祈りということです。

聖徒とは、クリスチャンのことです。

人はただ、キリストのゆえに聖徒とされます。

すべてのクリスチャンの祈りは、香として天に立ち昇り、まだ、実現していない祈りが天に蓄えられているということです。

最終的に、この香が8章で地に振りまかれて、結果としていくつかのことが起こります。

これは、個人のレベルで適用できると思います。

家族のため、友のため、私たちが祈り続けるならば、その祈りは香のように天に立ち昇り、蓄えられます。

そして、私たちは神の時に、その結果を見ることができるのです。

黙示録 5:1-7

「しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。」(5:3)

すべての人は罪を犯したので、誰も神のご計画を実行に移すことができる人はいません。

旧約聖書を見ると、神はアブラハムを選び、イスラエルの民を選んだことがわかります。

しかし、残念ながら、イスラエルの民は、神の民としての使命を全うすることはできませんでした。

彼ら自身が問題となってしまったのです。

使徒ヨハネは「激しく泣いていた」とありますが、確かに、旧約聖書だけでは、絶望しかありません。

しかし、5節にこのように記されています。

「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」

イエス・キリストは、神の子羊として十字架にかかり死ぬことにより、神のライオンとして勝利されました。

黙示録 4:5-11

「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」」(4:8)

使徒ヨハネは、生ける神のおられる部屋、神のリビング・ルームに入りました。

そこは、賛美に満ち溢れた場所でした。

ここに出てくる4つの生き物については、ししは獣の代表、雄羊は家畜の代表、人間は被造物の代表、わしは鳥類の代表で、それぞれが神を賛美している様子は、被造物全体が神を賛美していることをあらわしていると言われています。

ここで、「聖なる」ということばが、三回続いていることに実は意味があります。

へブル語では、最上級を表すときは、単語を2回繰り返します。

つまり、三回繰り返すのは特殊なケースで、これは、三位一体を現しています。

父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三つにまして一つなる神様なので、三回続いているのです。