黙示録 4:1-4

「その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」」(4:1)

使徒ヨハネはこの黙示録を書いたとき、エーゲ海のパトモス島という孤島に島流しにされていました。

共にいた仲間のほとんどは、迫害され、殺されました。

彼もまた信仰のゆえに、迫害され、今、島流しにされていました。

あるクリスチャンたちは信仰のゆえに、ライオンのえさにされてしまいました。

彼らは隠れて、集まっていました。

使徒ヨハネが落ち込む理由はたくさんありました。

しかし、1節を見ますと、使徒ヨハネはここで天国に上げられます。

私たちが知っておくべき二つの現実があります。

一つは、この地上における現実です。

もう一つは、天国の現実です。

だから、聖書は言います。

「上にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:2)

黙示録 3:14-22

「また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。」(3:14)

「アーメンである方」は不思議な表現です。

「アーメン」は旧約聖書が書かれたヘブル語で「その通りです。本当です。」という意味があります。

祈りの最後に「アーメン」と言うのは「本当にその通りです」という気持ちを表します。

イザヤ書に「アーメンの神」という表現が使われています。

「この地で祝福される者はまことの神(アーメンの神)によって祝福され、この地で誓う者はまことの神(アーメンの神)によって誓う。」(イザヤ65:16)

ですから、この地で祝福される者は、「アーメンの神」によって祝福されます。

人は「アーメンである方」、イエス・キリストによって祝福されます。

イエス・キリストがすべての罪の呪いを私たちの代わりに背負われて、十字架の上で死んでくださったからです。

バイブルスクール

ユース対象のTPKFイーストワンデイバイブルスクールが昨日町田純福音教会で行われました。

生粋のユースは僅か2人、あとは大人25名ほどだったでしょうか。

小山牧師は聖書解釈学、わたしは中間時代の講義を担当しました。

聖書はわたしたちクリスチャンにとって信仰と生活の唯一の規範ですから、クリスチャン一人一人がもっともっと聖書の御言葉を学ぶことへの意欲、飢え渇きが起こることをいつも祈らされています。

ところでわたしが講義した中間時代は旧約聖書と新約聖書の間、約400年の期間のことを指します。

厳密に言えばマラキ書からバプテスマのヨハネが登場するまでということになります。

この400年の間にイスラエルはアッシリア、バビロニア、ペルシア、マケドニア、エジプト、シリア、そしてローマと次々と大国に支配され真っ暗闇を歩いているような状況でした。

救い主を切望し祈り続けていたその時に、暗闇を引き裂く光であるイエス様は誕生します。

神様は沈黙しておられたのではなく、その「時」のための準備をしておられたことを、歴史を通して今私たちは見ることができるのです。

(小山晶子牧師夫人)

黙示録 3:7-13

「また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。」(3:7)

門を開くも閉じるも、イエス様次第であり、人がこじ開けるものではないと言います。

しかし、続けてこのように言われます。

「わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」

「少しばかりの力」とは、キリストの前に、自分の無力さを認め、キリストを求める信仰の力です。

「わたしのことばを守り」とあるように、自分に対する神の目的を求めることです。

そして、「わたしの名を否まなかったから」とあるように、イエス様の働きを否定しないことです。

今日は主の日。感謝礼拝です。共に主なる神に感謝と礼拝を捧げましょう!

黙示録 3:1-6

「また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」(3:1)

サルディスは山岳地帯にある小アジア最大の町でした。

切り立った岩壁に囲まれていたため、難攻不落の町だと言われました。

ところが、それがかえって罠となりました。

自信過剰になり、防護を怠ったのです。

サルディスの教会も、不道徳や、間違った教えの問題はありませんでした。

しかし、「名ばかりで、実は死んでいる」状態だったのです。

ビリーグラハムがある神学者にこんな質問をしました。

「今日のアメリカの教会で、一番の危険は何でしょうか」

彼はこう答えました。

「いのちを失った伝統です。正しいのですが、いのちがないのです。」

キリストとの人格的な関係を築こうとしなければ、「名ばかりで、実は死んでいる」と、イエス・キリストは言われます。

黙示録 2:18-29

「しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」(2:24)

ティアティラの教会の問題は預言者だと自称する「イゼベル」の教えでした。

それは、「サタンの深み」、「深い真理」(LB)です。

イゼベルの話は、「よくわからないけど、きっとすごい話をしているに違いない」と思わせるような話だったのだと思います。

しかし、そのような「深い教え」には注意が必要です。

マクグラス教授は警告します。

「十字架につけられたキリストの中心性を受け入れることのできないようなキリスト教はみな、『キリスト教』と言えるのかどうか、問い直さなくてはならないでしょう。キリスト教の関心は、神やイエス・キリストや、人間の性質や運命についてのでたらめな考えではなく、私たちが、イエス・キリストの十字架において出会う神秘的な生きた神との格闘なのです。」

黙示録 2:12-17

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』」(2:17)

「勝利を得る者」は、イエス・キリストを信じる者です。

その人は、第一に、「隠されているマナ」が与えられると約束されています。

それは、イエス・キリストご自身のことと考えられます。(ヨハネ六章参照)

第二に、「白い石」が与えられます。

この時代、「黒い石」は、否定を意味し、「白い石」は肯定を意味しました。

ですから、イエス・キリストを信じる者は、神に確実に受け入れられるという保証を意味しています。

第三に、「それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。」と言います。

「新しい」は、時間的な新しさでなく、質的な新しさを意味します。

神は私たちに新しい名を与えてくださいます。

「私たちは圧倒的な勝利者です。」(ローマ8:37)

黙示録 2:1-11

「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(2:10)

「十日間の苦しみ」は、文字通り十日という意味ではなくて、特に定まっていない期間を現すときに用いられたことばです。

当時の文化において、長く継続する期間を表すときに使われました。

同時に、終わりがあるということも意味しました。

試練の中にある時、苦しみの中にある時、それは、限りなく長く続くように感じたりします。

しかし、イエス様は苦しみの先にあるものを見なさいと言うのです。

私たちの敵である悪魔の武器の一つは「恐れ」です。

電車がトンネルの中に入った時、恐ろしさのゆえに飛び降りる人はいません。

トンネルから出る時が来ます。

恐れに負けてはいけません。

黙示録 1:9-20

「私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。」(1:10)

「主の日」は日曜日です。

キリストが復活されたのが日曜日なので、日曜日を「主の日」「主日」と呼んで、キリストに礼拝をささげるようになりました。

この箇所で、主の日に聖霊に満たされて、イエス様の声を聞いたというのには、意味があると思います。

キリスト者は、できるかぎりの努力をして、主の日に礼拝を忠実に捧げることを心がけるようにということです。

週の初めの日に、主なる神を礼拝することをいい加減にしますと、信仰生活がおかしくなっていきます。

「主の日」という意識の大切さを感じます。

ヨハネはどこからキリストの声を聞いたのでしょうか。

12、13節を見ますと、燭台の真ん中から声が聞こえたと言います。

20節に燭台の意味が出ています。

それは、教会です。

キリストは、あえて、教会のただ中におられて、そこで、私たちに語られます。

黙示録 1:1-8

「神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(1:8)

神は言語が表現できるすべてを抱く方としてご自身を宣言しました。

アルファはギリシア語の最初の文字で、オメガは最後の文字です。

ですから、最初から存在され、最後まで存在される永遠のお方ということです。

「ヤハウェ」という神の名前は、英語のBe動詞と同じ言葉から来ていて、存在を意味します。

神は時空間を超えて存在され、今、存在されているだけでなく、昔からおられます。

そして、最後までおられます。

「やがて来られる方」とあるように、この世の終わりに、イエス・キリストは再び来られます。

その日は遠くありません。

ですから、聖書は言います。

「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。」(3節)