デボーションノート

11月ももう半ば。

来週の日曜日はサンクスギビングデイです。

この一年の感謝を証しする時を例年通り持ち、アドベントの準備のために礼拝後は大掃除とクリスマスの飾り付けを予定していますので残れる方はぜひご協力ください。

緑の葉っぱが落ちまくるツリーとさよならし、とうとう新しいツリーを購入いたしました!

今回のものはすでにLEDライトが装着してあるタイプなので飾り付けも少し楽になるのではと期待しています。

一年の終わりを前に、わたしは新しいデボーションノートを準備しました。

今年もデボーションノートを読み返してみると、たくさんの祈りの課題が書き込まれていました。

継続中のものもありますが、神様からの答えをすでに受け取ったものも多くあり神様の信実の愛を感じることができます。

こうやってノートに書くと、主がどれほど毎日わたしに語ってくださったかも思い起こすことができて感謝です。

一年を通して語られたことの一つは

信仰がなければ神に喜ばれることはできません。

という御言葉です。

人生を通して、とことん主を信頼することができますように。
 (小山晶子牧師夫人)

詩篇 72:12-20

「ほむべきかな神である主イスラエルの神。ただひとり奇しいみわざを行われる方。とこしえにほむべきかなその栄光の御名。その栄光が全地に満ちあふれますように。アーメン、アーメン。」(72:18,19)

詩篇は全部で150篇ありますが、5つの区分に分けられて編集されています。

詩篇72篇は第二巻の最後の詩篇で、18節以下は第二巻全体の結びの「頌栄」です。

詩篇は、5つの区分、すべての結びに頌栄が歌われます。

「ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。」とありますが、神は昔も今もこれからも、「奇しいわざを行う」神です。

人にはできないことも、神にできないことはありません。

LBはこのように訳しています。

「この方こそすばらしいことをしてくださるのです。」

「アーメン」は「真実です、その通りです」という意味です。

「アーメン」と唱和することは、信仰の告白になります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

詩篇 72:1-11

「こうしてすべての王が彼にひれ伏しすべての国々が彼に仕えるでしょう。」(72:11)

マックス・ルケードは、「罪」をこのように定義しています。

「罪を犯すとは、「神よ、私はあなたが私の王であって欲しくありません。 私は王のいない王国がいい。 あるいは、私が王である王国の方がいい。」 と述べることです。聖書はこれを罪と呼んでいます。」

人は公正と義をもって治める王、イエス・キリストを追い出そうとしているから、混乱しています。

すべての人は悔い改めて、イエス・キリストを王の王として認め、仕える必要があります。

神の御国、神の統治は、「すでに」来ている側面と、「未だ」という側面があります。

この世界の終わりにイエス様が再び来られる時、最終的に成就します。

その日は、遠くないと私は信じています。

その日まで、イエス様を王として歓迎する人たちを通して、この地にシャローム(平和)がもたらされていきます。

詩篇 71:14-24

「神である主よ私はあなたの力とともに行きます。あなたのただあなたの義だけを心に留めて。」(71:16)

16節を聖書協会共同訳はこのように訳しています。

「私はあなたの力によって進みます」

詩人は、自分の力ではなく、神の力によって進んできたことを自覚していたのだと思います。

詩人が体験してきた神の御業は数えきれず、語り尽くせないと言います。

スポルジョン牧師は、こんなことを言います。

「私たちが自分の力で行こうとすれば、必ず倒れてしまいます。しかし、「この力で行け」という声を聞くとき、私たちは恐れることなく前進することができます。」

神はあなたの努力次第だとは言いません。

聖霊の力を受けるようにと言われます。

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

私たちは聖霊の力が必要です。

詩篇 71:1-13

「私の避け所の岩となってください。いつでもそこに入れるように。あなたは私の救いを定められました。あなたは私の巌私の砦なのです。」(71:3)

詩篇71篇の特徴の一つは、「いつでも」(always)という単語が3度繰り返し使用されていることです。

まず、3節で使用されます。

神は

「いつでもそこに入れる」「避け所の岩」

だと言います。

24時間365日、いつでも入れる扉が開かれています。

「イエス様の御名によって」私たちはいつでも、祈りによって駆け込むことができます。

聖書は言います。

「主の名は堅固なやぐら。正しい人はその中に駆け込み、保護される。」(箴言18:10)

二つ目は6節です。

三つ目は14節です。

14節を聖書協会共同訳では、「繰り返し、あなたを賛美します」と訳しています。

合理的に考えれば、一回賛美しても、繰り返し賛美しても、同じことのように思えます。

しかし、繰り返し、繰り返し、賛美の歌を歌いつづけることに意味があるのだと思います。

詩篇 70:1-5

「あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。」(70:4)

イエス様を愛する人の口癖は「神は大いなる方」です。

神を大きくする時、問題は小さくなります。

神の偉大さに目を向ける時、私たちを圧倒していた問題が小さく見える様になります。

神は私たちの弱さよりも大きなお方です。

神は私たちの最大の危機よりも、さらに大きなお方です。

神は私たちの失敗よりも大きなお方なのです。

信仰者の口癖は、そのように、神がどんなに偉大なお方かを語ることだというのです。

ウェンデル・スミス師はこのように言っています。

「私たちの礼拝のまず第一の目的は、神様を大きくあがめ、高くほめたたえ、神様が私たちの目の中に大きくなるようにすることです。そうして、私たちの持つ信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられる様になることです。」

詩篇 69:29-36

「心の貧しい者たちよ見て喜べ。神を求める者たちよあなたがたの心を生かせ。」(69:32)

「心の貧しい人たち」を、小林和夫先生はこのように解説しています。

「人生のただ中に神の介入を経験して、心砕かれ、へりくだりをもって神に仕える人々。」

イエス様もこのように言われました。

「心の貧しい者は幸いです。」(マタイ5:3)

「人生のただ中に神の介入を経験して、心砕かれ、へりくだりをもって神に仕える人々」は幸いですと言ったのです。

マックス・ルケードはこんなことを言っています。

「狼は羊飼いの許可なしに羊を捕まえることはできず、羊飼いは、長期的に見て、その苦痛が得るに値する場合にのみ、攻撃を許可する。」

人生を振り返りながら、「見合う苦しみだったのだろうか…」と思うことがあります。

ただ、「人生のただ中に神の介入を経験して、心砕かれ、へりくだりをもって神に仕える人々」となるためには、通らなければならない、祈りの苦闘があります。

詩篇 69:13-28

「しかし私は主よあなたに祈ります。神よみこころの時にあなたの豊かな恵みにより御救いのまことをもって私に答えてください。」(69:13)

13節を直訳しますと、こんな感じになります。

「しかし私は、私の祈りはあなたに。主(ヤハウェ)よ。恵みの時。神よ、あなたの豊かな信実の愛によって、私に答えてください。あなたの救いのまことによって。」

「しかし私は」という言葉は強調されています。

詩人は、嘲られ、笑いものにされている状況で、「しかし私は」主なる神に祈ると言います。

その土台は、契約を守られる神の信実の愛です。

これは、イエス様の模範に従うことでもあります。

「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。 (マルコ5:36口語訳)

嘲りの言葉に晒されても、笑いの種にされても、それを聞き流して、ただ信じ、祈る、そこに神の御業が現されます。

フードチョッパー狂詩曲

先週月曜日のオープンチャーチは天候にも恵まれ楽しいひとときとなりました。

ご協力と背後の祈りを本当にありがとうございました!

今回私は主に鶏そぼろ弁当の具を作りました。

そぼろといえば挽肉なのですが挽肉は足が早いので、もも肉を買ってそれを作る直前にミンチにすることにしました。

よく考えたら我が家にはフードチョッパーがなかったのでドンキに買いに行きました。

ところが何かピンとこない。

今度はノジマへ行ったのですがこれ!と思ったものだけ在庫切れ。

もう一度ドンキに戻るかヨドバシに行こうかと思ったのですが、ダメ元で一応イオンをチェックすることにしました。

思った通りイオンにはなかったのですがちょうど3階で問屋フェアをやっていたので覗いてみました。

布団やカバン、金物などだったのでああ、やっぱりチョッパーなんて無いよね、と諦めかけたその時、棚の一番上に たった一つだけ電化製品が。

なんとそれはわたしがイメージしていたそのままのフードチョッパーだったのです!

しかも値段もこれまでみた中で最も手頃。

神様の細やかなご配慮に賛美の歌が溢れました!! 

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 69:1-12

「それはあなたの家を思う熱心が私を食い尽くしあなたを嘲る者たちの嘲りが私に降りかかったからです。」(69:9)

神を嘲る言葉は私たちの心を痛めます。

ダビデは言います。

「私があなたを弁護したため、敵は、あなたに対してするように、私に侮辱のことばを投げつけてきます」(LB)

神を弁護する必要はありません。

私たちが神に弁護される必要があります。

とはいえ、ダビデは神の御名が汚されないように気をつけました。

「ああ主よ。この私の存在が、あなたを信頼しようとする人々にとって、つまずきとなりませんように」(6節LB)

イエス様は、神の家を思う熱心から、神殿で神に近づこうとする人々を妨げていた商売人たちを追い出しました。(ヨハネ2章参照)

教会で神に近づこうとする人々を妨げることがないように、気をつけましょう。

礼拝を捧げるために、神を求めて来る人たちを歓迎することに熱心になりましょう。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!