詩篇 62:1-12

「神は一度告げられた。二度私はそれを聞いた。力は神のものであることを。」(62:11)

メッセージ訳ではこの箇所をこのように訳しています。

「神はこれをきっぱりと言われた。何度繰り返し聞いたことだろう。『力は神からストレートに来る』」

神は聖書を通してはっきりと語られました。

「二度」というのは、「繰り返し」という意味に理解できます。

私たちは、繰り返し、繰り返し、聖書を通して、神の言葉を聞いています。

それは、「力は神からストレートに来る」という真理です。

私たちが必要としている力は、ただ、神からストレートに来るという真理です。

人はこの真理に立ち返る必要があります。

「主を仰ぎ見て」という賛美があります。こんな歌詞です。

「主を仰ぎ見て、力を得よ。主は我が力、我が盾。

主を仰ぎ見て、光を得よ。

主が全てを、成し遂げられる。

私にせまるどんな山も、越える力、与えてください。

私が恐れず、 ただ主を信じ、進むことができるように」

ガラテヤ 6:11-18

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」(6:14)

私たちを動かすものは、主イエス・キリストの十字架以外のものであっては断じてならないと言います。

イエス・キリストの十字架の御業だけが、教会が存在し、活動する動機でなければならないと言うのです。

このガラテヤ人への手紙をパウロが書いた時、ローマ帝国の皇帝はネロでした。

当時の人々は皇帝ネロを「主」(キュリオス)と呼んでいました。

ですから、「私たちの主(キュリオス)イエス・キリストの十字架」という表現は、人々に不思議な感覚を与えました。

十字架刑を執行する権威をもつローマ皇帝ではなく、十字架刑に処せられ死んでいくイエス・キリストが、まことの主(キュリオス)であると言ったからです。

このキリストの十字架を誇る生き方が求められているのです。

ガラテヤ 6:1-10

「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(6:1)

「御霊の人」と聞くとどんなイメージをもたれるでしょうか。

「御霊の人」というのは完全な人のことではありません。

5:22,23の「御霊の実」を、聖霊の力によって実らす人生を生きている人のことです。

「メッセージ」訳では、1節をこう訳しています。

「友よ、創造的(クリエイティブ)に生きなさい。もし、誰かが罪に落ちたなら、赦しつつ回復させなさい。あなたの批判的なコメントは自分自身のためにとっておきなさい。あなたがその日が終わる前に必要かもしれないからです。」

つまり、聖書的に「御霊の人」とは、自分の弱さを知っている人であり、批判的にならずに、赦しの心をもっている人ということです。

ガラテヤ5:13-26

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(5:22,23 )

「実」が意味することは、幹にしっかりとつながっていることと、時間がかかるということです。

どうやったら「御霊の実」を結ぶことができるか、その答えは、5:25 にあります。

「もし、聖霊によって生きているならば、聖霊によって歩もう。」(私訳)

聖霊によって生かされているのだから、日々、聖霊に導かれて、一歩一歩、歩むならば、実を結ぶことができるということです。

キリストと共に、日々、生きていくなかで実を結ぶことができるということです。

そもそも、プロセスもなく、インスタントに実を結ぶことはありません。

日々、聖霊なる神様を歓迎し、力をいただき、祈りつつ歩む中で、私たちは御霊の実を結んでいくということです。

聖霊に満たされている人とは、日々聖霊によって歩み続けている人のことです.

ガラテヤ 5:1-12

「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(5:1)

「奴隷のくびき」とは、パウロに反対していたユダヤ主義者の教え、「割礼を受けてユダヤ人にならなけれならない」という教えです。

パウロは、ユダヤ人のしるしであった「割礼」を受けてユダヤ人になるというなら、儀式だけではなく、旧約聖書全体を守る義務が生じると言いました。

しかしそれは、イエス・キリストの十字架の御業を無効にする行為であり、「イエス・キリストを削除すること」と同じだと言います。

私たちは自分自身や自分の属する共同体の足りなさに不満や不足を感じ、この地上に理想を実現しようと頑張ります。

しかし、私たちが必要なのは、理想への無謀な飛躍ではなく、イエス・キリストです。

「あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」

「もちいてください」

細々と活動しているリラですが、今年もいくつかコンサートに呼んでいただき、12月にもメンバー揃ってのクリスマスコンサートが予定されています。

キリスト教界の様々な場所で曲が用いられ、改めてこの働きが主のものであることを確信/確認させられています。

さて先日、来月の準備賛美候補にリラの「もちいてください」はどうかなと思いYouTube で検索していました。

するといろんな人がこの曲で動画をアップしていた中に[世界◯◯◯教]という明らかに怪しいグループが。

しかも素晴らしい伴奏譜まで作ってさわやかに大勢で歌っているのです。

これまでも異端のグループにリラ曲が使用されたことは何度かありますが、まことの救いを求めている方々に、私たちが福音を伝えられていない現実と申し訳なさで神様の前に深く悔い改めさせられました。

聖霊様に満たされて宣教への思い燃やされ、失われていく魂への責任を果たすことができるようにと祈らされています。

オープンチャーチはそんな機会の一つだと思います。

祈り備え、心合わせて人々に主の愛を流すことができますように。
(小山晶子牧師夫人)

ガラテヤ 4:21-31

「ここには比喩的な意味があります。」(4:24)

この箇所で使徒パウロは、旧約聖書の創世記16章に出てくる内容を「比喩」的に解釈して語っています。

つまり、「字義通り」の解釈ではなく、「隠れた意味」があると言うのです。

聖書学者のゴードン・フィーは、パウロがこの箇所を

「『聖書をどう扱うか』の例として私たちに提供するために書いたわけではない」

と指摘します。

つまり、この箇所におけるパウロの聖書の使い方は、「特殊」だというのです。

この様な比喩的解釈法を、一般的に聖書を解釈するのに用いていたとは考えてはいけないというのです。

聖書を解釈する時は、字義的に、すなわち、著者が何を意図して書いているかを考える必要があります。

自分の思いを読み込めば、何とでも解釈できてしまうからです。

聖霊に導かれた聖書記者が何を言おうとしているのか、それを読み取ることが大切です。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ガラテヤ 4:12-20

「あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。」(4:17)

「何のために熱心なのか?」ということは問われる必要があります。

キリスト教会は、人集めのために熱心なわけではありません。

自分の仲間を増やすために熱心なわけでもありません。

「自分たちに熱心にならせようとして」いるわけではありません。

使徒パウロは、はっきりとこう言っています。

「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント4:5)

キリスト教会は、一人でも多くの人がイエス・キリストに熱心になって欲しいために熱心です。

一人一人がイエス・キリストとの人格的な関係を築くために熱心です。

イエス・キリストに対する思いが重要です。

ガラテヤ 4:1-11

「そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」(4:6)

アブラハムの神は、人格的な臨在をもって人々の間にご自身を現されました。

そして、同じように、子なる神イエス・キリストを遣わし、人格的な臨在をもって人々の間にご自身を現されました。

今、「御子の御霊」、聖霊なる神を遣わされ、人格的な臨在をもって人々の間にご自身を現されています。

「アバ」という言葉は、親密さを表す言葉です。

初代教会において、祈りの言葉として浸透していたのだと思われます。

イエス様が弟子たちに教えた祈りの言葉だったというのが、一般的な見解です。

ここにも三位一体なる神の働きをみます。

聖霊なる神が、私たちのうちに来て、住んでくださいます。

そして、子なる神、イエス様の祈りの言葉、父なる神との親密な関係の言葉を与えてくださいます。

私たちはそのようにして父なる神との親密な関係の中に入るのです。

ガラテヤ 3:19-29

「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(3:28)

パウロは、人がイエス・キリストとの交わりの中にあるならば、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、男性であろうと女性であろうと、差別はもう存在しないと言います。

違いがなくなるということではありません。

イエス・キリストの十字架のもと、すべての人は同じ地面に立っているということです。

キリストの中で、人種、社会的地位、性別の優劣はありません。

しかし、残念ながら教会の歴史を見る時に、人種によって教会が引き裂かれてきたこと、社会的地位で引き裂かれてきたこと、性別によって引き裂かれてきたことが分かります。

また、「一致」を履き違えて、自分たちの思い通りに人々を動かそうとすることによって、争いと衝突が繰り返されていることも事実です。

悔い改めと癒しが必要です。