ガラテヤ 3:10-18

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」(3:13,14)

「呪い」の問題は、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架にかかり、「呪われたもの」となってくださったがゆえに解決しました。

それは二つの目的があります。

一つ目は、「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶため」です。

それは、「信仰だけをその存在理由として生きる人々」が、「信仰の人、アブラハムと共に、祝福される」ためです。

二つ目は、「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるため」です。

イエス・キリストの十字架の御業という神の真実を通して、「聖霊」と言う神の約束が与えられるという意味です。

ガラテヤ 3:1-9

「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(3:2)

パウロが確かめたかったこと、それは、「クリスチャンとは何か?」ということです。

「律法を行なった」という意味は、ユダヤ人のしるしである割礼を受けたとか、食物規定や安息日律法を守ったという意味です。

つまり、「クリスチャンのしるしは、ユダヤ人のしるしでしょうか?」というのがパウロが確かめたい内容です。

パウロは、「御霊を受けた」こと、つまり、キリストを信じることを通して聖霊の恵みに預かっていることこそが、クリスチャンの本当のしるしだと言います。

生ける神が私たちの内に住んでくださっているという生きた信仰は、信仰をもって聖書の御言葉を聞くことなしには生じません。

昔から教会で祈られてきたように、

「Veni, Sancte Spiritus」

「聖霊様、来てください」

と日々、祈ることが大切です。

ガラテヤ 2:11-21

「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。」(2:16)

ユダヤ人にとって、「罪」は「トーラ」と呼ばれるモーセの律法を守らないことでした。

ですから、割礼を受けていない人は皆、罪人とされました。

特に異邦人社会に暮らしていたユダヤ人にとって、割礼や食物規定、安息日律法などは、「自分たちの民族のしるし」として大切にしていたものでした。

パウロは、ユダヤ人になることによって正しいとされるのではなく、「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と言いました。

つまり、ユダヤ人が救われるのではなくて、神の御子イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかり死んでくださいましたから、イエス・キリストを信じる者が、救われるのです。

葡萄よ、さらば

清々しいスポーツの日の午後、新實伝道師と久美姉と3人で教会の木々の剪定を行いました。

しばらく前からバラの枝にびっしりと白い虫がついていて薬をまいたり悪い枝を切ってみたりと試行錯誤していたのですが効果が見られず、意を決して抜くことにしました。

梅の木もかなり枝が伸びていて、しかもこちらにはまた別の白い虫が飛び回り、久美姉は大量の羽虫に囲まれながら格闘してくださいました。

ベランダまで伸びていた月桂樹にはなんとアシナガバチの巣が。

まだ小さかったので取り除きました。

わたしはずっと弱った葡萄の木を抜いて(葡萄は寿命が15年程度)しまいたいと思ったのですが小山牧師から今年も許可が出ず、剪定だけを行うことに。

ところが剪定中、一本しかない枝を途中からバッサリ切ってしまったのです。

まずい、、、非常にまずい、、、次の日、ラプンツェルの髪のように、切った先の枝はたった一晩で枯れてしまい、結果葡萄の木を抜くことになってしまいました。

この葡萄の木のように、イエスさまに繋がっていないとあっという間にクリスチャンは枯れてしまうことを意識させられました。

(小山晶子牧師夫人)

ガラテヤ 2:1-10

「忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。」(2:4)

「キリスト・イエスにあって」という言葉の意味は、二種類の可能性があります。

一つは、「キリスト・イエスに」《よって》、私たちが持つことができた自由という意味です。

つまり、イエス・キリストを手段として持った自由ということです。

イエス・キリストは、私たちが罪に縛られて生きなくていいように、私たちの身代わりとなって、十字架にかかり、死んでくださいました。

今、誰でもイエス・キリストを信じるならば、 イエス・キリストによって、私たちは自由をもつことができます。

もう一つは、「キリスト・イエス」の中で、私たちが持つことができた自由という意味です。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ガラテヤ 1:11-24

「私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(1:12)

使徒パウロが問題にしていることは、「福音」の内容ではなく、どこから来たかということです。

パウロは、伝承や伝統からではなく、イエス・キリストからの直接啓示だと言います。

「伝承」や「伝統」は、私たちを守る側面もありますが、私たちを見えなくさせる側面もあります。

「伝承・伝統」に目隠しされてしまったパウロは、深く考えることもなく、自分が教えられてきた「伝承・伝統」と違うキリスト教会の迫害者となってしまっていたと言います。

私たちも、そんなことがあるのではないでしょうか。

深く考えることもなく、「伝統だから」「そう教えられたから」ということで、「それらに反する」というだけで、攻撃しているということはないでしょうか。

伝統や伝承ではなく、聖書が何と言っているかが、私たちの人生を変えます。

ガラテヤ 1:1-10

「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」(1:10)

私たちは本質的な福音メッセージを、人の歓心を買うために曲げてはいけません。

どんなに人々が拒絶しようとも、受けが悪くても、イエス・キリストの十字架の御業だけが、人を救うことができるということを伝える必要があります。

しかし、フィー教授はこう言います。

「より大きな危険は、不必要に人々が背を向けるような方法で福音を提示し、この箇所を自分の愚かさを正当化するために用いようとする誘惑である。」

要するに、「別に人の歓心を買おうとしていないから」と、教会が人々に福音を伝える工夫を怠ってしまうならば、それは悲しいことです。

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」です。

ホセア書 14:1-9

「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。」(14:9)

主の道は「平ら」というのを、協会共同訳では「まっすぐ」と訳しています。

英語の聖書では、「正しい」と訳しています。

つまり、「主の道」こそ、歩むべき道ということです。

ただ、「主の道」を歩むかどうかは、私たちの選択だというのです。

主の道は「人生の道」です。

「道」と訳された「デレク」という単語は、元来、道徳的な振る舞いなどの意味があります。

生き方、生活の仕方という意味があります。

聖書は、私たちの信仰だけではなく、生活の規範でもあります。

主の道はまた「いのちの道」です。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。

私たちが歩む主の道、私たちが伝えなければならい主の道、それは、「わたしが道である」と言われた、イエス・キリストです。

ホセア書 13:1-16

「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。」(13:4)

主なる神はイスラエルの民がエジプトにいた時から今に至るまで、変わらずに

「あなたの神、主である」

と言われます。

神の愛は永遠の愛であり、神の信実は変わりません。

ところがイスラエルの民は、必要が満たされると高慢になってしまい、主なる神を忘れてしまいました。

主は言われます。

「しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。」(6節)

必要がある時は謙遜に神を求めていたのに、必要が満たされると、手のひらを返したように神の恵みを忘れて、あたかも自分で切り開いてきたかのように振る舞う。

このようなイスラエルの姿は、他人事ではありません。

神の恵みを忘れることなく、謙遜に神を神として生きていくことができますように。

ホセア書 11:12-12:14

「ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力で神と争った。」(12:3)

「その力」とは、「彼の力」、「人間的な力」という意味です。

新共同訳では、

「力を尽くして神と争った。」

聖書協会共同訳では、

「力の限り神と闘った」

と訳していますが、

「一生懸命あがいてみた」

ということだと思います。

岩波訳では、驚くことに、

「その富をもって」

と訳していますが、

「裕福になった時」

という意味だと思われます。

口語訳では、

「成人したとき」

と訳してますが、成長して、裕福になって、

「神なしでも自分でできる」

と思い上がっていた時に、神と格闘したという意味にもとることができます。

いずれにせよ、共通点は、

「自分の力に依存するか、神の存在を認めるか」

ということです。

ヤコブの問題は、

「神に頼らなくても、自分で何でもできる」

ということでした。

彼の生き方はまさに自分勝手、自分中心でした。

「自分は神が必要な存在だ」

と認められるかどうかが、私たちの人生を左右します。